アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

連合よ、お前もか

この連合という言葉は、あまり知られていないが、いろいろな組合の連合体のことである。できた当初から、たくさんの考え方の異なる労組の集合体として、力が結集されていくという期待と、どうせ要求事項が異なるのに一枚岩にならないのではという失望が渦巻いていた。

労組は、労働者の雇用を維持し改善することを主として結成されている。当然、賃金や労働条件などを交渉するための組織で、それぞれの活動は、憲法にも保障されている。経営者と労働者の代表で合意した事項は労働協約として大切にされる。これらを盾に、チンピラは労組を盗っ人呼ばわりし、反社会団体のようなマイナスイメージを植え付けた。おぼっちゃまも、教員組合を目の敵にし、加入教員を、非国民呼ばわりをした。どちらも、かえすがえす幼稚だ。

実は、労働者の権利は日本国憲法だけでなく、具体的に労働三法【労働組合法・労働基準法労働関係調整法】によってさらに遵守されるよう、二段構えになっている。法律としては、憲法に次ぐ上位法で、資本主義を司る社会制度の存続に関わるだけでなく、全ての国民が幸福を追求する基本となるものである。

以前から問題視されている、過労死などは、勤務時間違反からして、雇用者側の重大な犯罪である。たいていの場合、当事者の頑張りみたいな、個人的要素として捉えられてしまうことが多いが、それは司法の怠慢であり、ある意味これも犯罪である。もし、小生が町奉行であれば、過労死や自死に追いやった雇用者は、全て打ち首獄門である。

人を雇うということは、その人の人生を引き受けることと同じである。人は生まれながらに幸せに生きる権利があり、国はそれを保障しなければならない。雇用者は、王様ではない。当たり前の話だ。しかし、幕末に革命ではなく、一部の藩だけが行なった、為政者の交代という生温い変化しか経験しなかった我が国は、人の上に立つ者の責任について、とても甘く捉えている。契約ということに、非常に曖昧である。また、対立軸もいつも曖昧である。

 

さて、話を戻そう。労組攻撃は恐ろしいほど人権感覚を欠如したまま、報道された。市民に不正を構築したのは労組であると吹聴した。そのため、多くの誤解が生じ、公務員批判が渦巻いた。多くの人の、支持を得るには、悪口が一番効率がいい。盤石な政権獲得のために、労組は攻められた。この国の、根幹をなしている様々な不正は、労組にはない。組合員の組合費に頼る労組には、そこまでの力はない。真の改革派は、労組を攻撃するはずはない。

そうやって労組は衰退してきた。デモも集会もなくなった。いや、できなくなった。労組の幹部からなる政党も、組合貴族の生活が長く、改革の爪は剥がれてしまった。貴族らしく自分勝手に振る舞い、いつの間にか生活者の代表という、原理原則を忘れ雇用者の味方になった。

各労組も、一気に揺らいできている。組合の幹部が、組合員の金でキャバクラ通い、使途不明金の噴出。誰のために幹部をしているのか、自覚が足らない労組もある。また、立場を利用した管理職登用などは教育界では常套手段であるという。すなわち組合の役員は現場に戻れば直ぐに管理職になるということだ。これでは組合員は疑惑を覚えるに違いない。

 

労組の不正、市民の労組嫌い、勤労者の労組離れが急速に進むなか、遂に連合は、雇用者側に立つ決断をした。多分、銀座のクラブで、たくさん飲んでいい思いをしたのだろう。組合員のお金だから、痛くも痒くもない。もう、この暑さで、みんなおかしくなってしまったのだ。

勤労者の願いは誰に託すのか。このままでは、近くの神社にお参りするしかない。

今日は梅雨明けである。

 

鰻食べよっと