アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

すてきな和歌山6 津波編

またまた、懲りずに和歌山物語が続く。

和歌山は、すてきな動物、美味しい食材、人の手が加わらない絶景、古くからの文化など、楽しみ方、味わい方が多様で、面白い。

人も、おおらかで、南紀に行くと、沖縄時間と錯覚するほどの時間のルーズさに出くわすこともある。温暖で穏やかな気候がそうさせるのか、海や山など自然の景観がそうさせるのか、よくわからないが、畿内の端、民俗学的にみても、面白い土地である。真剣に岡山や千葉との共通点や相違点を追究すると、古の人の行き来が明らかになる。それどころか、大陸との関わりや、文化の交流の一部が解き明かされるかもわからない。いま、和歌山を研究することは、あの折口信夫(オリグチシノブ)になることなのかもしれない。それならば、和歌山にいる友だちを頼って、是非挑戦したい。

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さて、昨日は、世界津波の日、これは、和歌山の日と言っても過言ではない。

テレビのニュースでは、スマホと衛星を使った、安否確認訓練が、広川町の八幡神社であったことを伝えていた。そもそも和歌山の地方都市で、どうして、こんなハイテクの津波避難訓練なのか、全く触れないで、淡々としたことだけを、ニュースで報道していた。

 

こんなのを、放送しないと、本当の大切さは伝わらんでしょうが。津浪まつり。

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11月5日というのは、江戸時代の後期、安政年間に、和歌山の広村(現..広川町)に生まれ育った大商人の、濱口梧陵が、南海地震による5メートルの津波が押し寄せる中、稲わらに火をつけ、小高い丘の上にある八幡神社への避難路に、人びとを導いた日である。

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広村出身の商売人で、千葉の銚子と、江戸で醤油屋を営んでいた。

広村の隣は、醤油の発祥地で有名な、湯浅である。この地から、千葉へは、船が漂流しても、黒潮に乗って流れ着くことも多かったという。実際、千葉には勝浦、白浜という地名がある。

梧陵は、一年の半分は、関東で店の大旦那として暮らし、半分は故郷で暮らすという、濱口家の先祖代々の生活を守っていた。

偶然にも、11月5日には、広村の自宅にいたが、地震と知り、これまた先祖代々の教えに従い、津波を予想し、村人たちに避難を呼びかけ、迫り来る海水に浸かりながらも、大勢の命を救ったという。

95パーセント以上の村人が助かり、近隣の村の生存率40パーセントを大きく上回った。

一刻も早く1300人もの村人たちを救いたいと、夕闇が迫る中、稲わらに火をつけ、八幡神社に村人を導いた事実は、後年、ラフカディオハーン(小泉八雲)が書いた『a living god』を、和歌山師範学校出身の小学校訓導、中井常藏が翻訳し、国語教科書教材として応募したことにより、『稲むらの火』として広く知られることになった。村の庄屋として語られる梧陵は、実際は35歳であった。

 

梧陵は、幾度となく打ち寄せる津波がひいた後も、避難していた村人たちの生活を支援した。船や住宅を貸し与え、農機具も、惜しみなく買い揃えた。そこには、広村を、失いたくない、村人1人でも去って欲しくないという、郷土愛が、貫かれていた。

 

梧陵の、素晴らしさは、そんな程度ではない。ただの、金持ちではなかったのである。生活の支援だけでなく、生きる歓び、働く歓びを、避難住民にも抱かせたいと、津波から村を守る堤防を築きそこで村人たちに働いてもらおうと、紀州藩の許可を得た。

村人たちは、盲人も子どもも働けるものは、全て堤防作りに参加し、梧陵は、その日当を支払った。単なる施しではなく、人としての尊厳や、故郷を思う心を大切にした。

 

しかし、この時再び関東で安政の大地震が起こり、梧陵の江戸の工場は、壊滅する。もう、広村に送る資金はないと、番頭は出費を渋るものの、梧陵は、堤防造りを続けさせた。村人たちは、梧陵のことを神と崇め、さらに信頼を寄せていった。

銚子の工場は、広村出身の者も多く、故郷の村に仕送りをしようと、必死に生産に励み、過去最大量の醤油を生産し利益を上げた。

 

工事は、外国船の度重なる来訪など、社会情勢の変化によって、途中で打ち切られたが、長さ670メートル、高さ5メートル、幅20メートルの当時世界最大の堤防が完成した。そこに、松など山の木を植樹した。

 

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この工事で要した人員は延べ5万6736人、費用は94貫344匁(1,572両)であった。現代の金額に換算すると、米価換算ではおよそ3億7000万円、賃金換算ではおよそ18億6000万円となる。

何度も書くが、費用はすべて梧陵が調達した。銚子からは、安政2年に818両、安政3年に700両、安政4年に500両、合計2,018両が、送られたという記録が残っている。

 

こうして浜村の村人たちは、村を離れることもなく、村の崩壊は免れた。

 

梧陵は、その後、和歌山県県議会議長を務め、ニューヨークに渡航中に亡くなった。66歳であった。彼の葬儀には、村人の人数をはるかに超える、4000人もの人が参列した。今は、町の中で静かに眠っている。

 

梧陵の、業績はとにかくすごい。御三家である紀州藩と、堤防の許可で交渉する度胸も、素晴らしい。

初代郵政大臣であった前島密の前に、日本の郵便事業の基礎を作り上げた。

東京大学医学部の前身の、西洋種痘所を支援した。

故郷の、広村に教育機関として耐久社を建て、その精神は、今も耐久中学校、耐久高校に受け継がれている。

余談ではあるが、テレビドラマ「仁」の第7話で、ペニシリンを大量に生産する醸造所の主人としても登場する。

 

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梧陵は、7代目濱口儀兵衛と名乗り、今のヤマサ醤油の7代目当主であった。そのヤマサ醤油の屋号も、山の形にカタカナのキの紀州藩の船印になぞらえつけようとしたが、御三家の紋章は、さすが恐れ多く、山の形に、キを90度回転させカタカナのサとし、ヤマサとしたということを、学生の時に、大学の助教授から聞いた。

 

どこまでも、和歌山を愛する人たちである。わたしも、生醤油やたまり醤油は、角長の醤油を、ポン酢醤油や普段使いの醤油は、ヤマサである。

それでも、梧陵さんには、なかなか及ばない。

 

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