神戸ルミナリエ
日曜日までである。
今年は、西洋諸国に開校150年の年なので、記念の年として、いつもと違うらしい。どう違うかは、毎年行っていないから、とんと見当がつかない。
このルミナリエは、震災後始まった。初めての年は、被災者だし、癒されたい一心で見に行った。しかし、だんだん客集め、商売優先、時には、わけのわからない寄付を募る大合唱に嫌悪感を抱き、足が遠ざかってしまった。
初めは、職場に、リエさんもルミさんもいたので、リエなルミなのか、ルミなリエなのか、わからなくなってしまった。
ようやく、間違わず言えるようになるのは10年経ってからである。これは、キャリーパミュパミュに次ぐ、ややこしさであった。
これが、ボンゴレロッソやアラビアータなら、3日もすれば言えるのに、どうして、そこまでイタリア語にこだわるのかわからない。第一、神戸のまちの原生的、模範となる国は、イギリスである。イタリアもヨーロッパには違いないが、この街にとって、突然現れた異質感は拭えない。
しかし、綺麗ならばいい、と言いながらも20数年が経ち、本来の意味合いすら薄れ、近所の人の中でも最近行った人は稀である。こんな調子だから、この前に行ったのは3年前だ。LEDになったとかなんとかで、あっさり感はあったが、さほど感動しなかった。
今日は、いつも通り元町で電車を降り、会場に向かおうとした。しかし、そのままいざ見参という雰囲気に、なかなかなれない。誘導する係員のこなれた、えらそうな感じが、なにか、万国博覧会のアメリカ館の行列整理を思い出させてくれている。神戸市民だから、そんなにギャーギャーわめかなくても、品良く心得ておりますという態度で、ゆるりゆるりと進んでいるのに、なにか、素人物見集団おのぼり田舎者の扱いをされているようで、押し付け感、見せてやろう感に、抵抗というか反発があった。
そこで、神戸市民だから、その手には乗らんもんね、と、赤萬の餃子でまず空腹と、疎外感を満たし、やいやい、神戸市民垂涎の餃子を食して参ったぞという郷土愛を腹のなかに詰め込んで、乗り込むことにした。
何だかんだ言っても、赤萬の餃子はうまい。焼きあがってきた餃子をパクパク口に入れたが、何故か醤油っからい。あれ?こんなのだったかなと、しばらく呆然としていたら、なんとなんと、酢を入れるのを忘れていた。神戸市民が、赤萬の、あの赤萬の餃子に対して、無礼をはたらいてしまった。なんてこったパンナコッタ。これから乗り込む、ルミナリエという戦場を、あまりにも意識してしまったために、頭が混乱していたのかもしれない。餃子は、いつもながら美味しかった。
店を出て、いよいよ人の流れに乗る。さっさと歩け、と、また、腹の立つ、若者の心の通わない指示に従い、大丸の一つ上の筋を、東へトアロードをまだ越えて朝日会館の筋を南に折れ、その会館前を大丸の東まで歩く。まあ、時間稼ぎだ。
歩く距離が長い。こんなに歩かせたなら、障がいをもつ人や、高齢者は見に来れない。初日の前の日に、特別に招待というのもあったと思うが、いかんせん、ディズニーランドのような、ショートカットがないものだろうかと、見たが、あろうはずがない。
神戸らしくないと思いながら、ついに大丸の南まで歩き、左に曲がった。元町駅からだと、南→東→南→西→南→東である。
出たぁ。あれ?凄い!
今までにない、というか、今までとは別物のルミナリエである。今までの、青っぽかったり、緑っぽかったり、オレンジ色っぽかったりした淡い色調のものとは全然別物の、メリハリのある色合いで、温かみがある。イタリアというより、何か、イスラムチックな、イメージが広がる。観客も、口々に感嘆の声を上げている。
どや?参ったか?
はい、完敗でございます。
メイン会場の東遊園地の、その南側では、神戸を代表する食品会社やホテルのブースがあり、手頃な値段で味わえる。簡単なステージもあり、クリスマスソングや、ジャズの演奏もある。音楽を使ったイルミネーションショーも披露されていた。
MCC、UCC、アンリシャルパンティエ、DONQ、ポートピアホテル、TON'S、QBB、剣菱、神戸コロッケ、老祥記、RL、など目白押し。これだけでも、ここまで来た甲斐がある。お値打ちものだ。あと、伍魚福でもあろうものなら、完璧である。
初めは、なかなか馴染まなかったが、今年のルミナリエは、とても素晴らしかった。
あえて言うなら、障がいをもつ人や高齢者の人も一緒に見れるショートカットを作ってほしいし、最後に連呼する募金の呼びかけは、控えてほしい。価値のわかる人は、きちっとしているから大丈夫だ。もし、資金に行き詰まったら、加納宗七や網屋吉兵衛のような人がたくさん現れる街だから。
明日も行くかも。