アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

劇団四季はハングルだらけ

四季をやめて戻った子に、四季の話を聞いた。この前、ノートルダムの鐘を見たところだが、四季といえば、熱烈なファンがいる。

コレは、クラシック音楽を聴くのが、上品だと思い込んでいるようなものではあるが、あの、オペラの出来損ないのような、気持ちの入らない、人間の言葉ではない、非日常性を求める人には、まあ、あるかもしれない世界ではある。

 

一部の都会の小学校では、6年生に心の劇場として、ただで観せている。もちろん日本生命や企業がその料金を支払っているのではあるが。次第に、つまらなくなり、もういいわという話も聞く。東北の震災の時には、チャリティーのようなものをしていたが、取材のためのしくみが、あちこち見られ、傍が痛かった。

 

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さて、その劇団四季である。

舞台は広い。しかも、不必要な踊りがある。楽しい時も、哀しい時も、のべつ幕無しに、あの、感情のこもらない、セリフと共に、観客に襲ってくる。しかも、時々、セリフが日本語として変な時がある。哀しい時も、大声でセリフを言い、まるでバイキンマンの、はひふへほーのように、お馬鹿である。

 

役者は半分近くが韓国人である。楽屋には、ハングルの表記がなされ、あまり日本語が得意ではない、来日すぐの韓国人もいる。

彼らは、大柄であるし、喉も丈夫である。あの、母音法というケッタイな発声法は、日本語が不得意な韓国人のためのものではないかと、思ってしまう。日本人の役者は、なかなか主役にはなれない。なんだろうこれ。

基本的に、日本人の役者を育てようとしない。まして、裏方の仕事は、実に悲惨であるという。役者に高い給料を支払い、裏方は、その多くが派遣である。

韓国人や中国人の役者は、偉そうに裏方を顎で使う。

役者は、日本語を知らず、裏方は仕事を知らず、そして経営陣は、演劇界の揺さぶりを知らないのである。

友人の中にも、あんなの、劇ではないと断言する元ファンもいる。

 

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観客は、減り続けている。演目は、海外のコピーであり、悲しいことに、日本らしさ、文化的な価値などない。いっそのこと、チャングムや一枝梅でもやればいい。

 

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小学生に見せているちょい劇は、さらにひどく、話に意外性も、面白さも、メッセージすら見えてこない。タダだから行ってやっているわけで、見せられているわけでもある。最近は、どんなに小学生に貢献しているか、資料まで作って配っているという。

 

それでも、この頃、他の劇団のCMが、よく見られるようになってきた。アホな、傀儡の大劇団より、脚本家がきちんといて、舞台監督が、きちんと監修している劇を見に行きたい。

ある意味、そういうものが大切な時代だからだ。