アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

演劇文化に思う

海外からの観光客は、日本の文化の特殊性と伝統に心打たれるという。漫画やアニメも立派な文化ではあるが、日本の伝統を支えるものの中に、能や狂言があり、やがてより大衆化して歌舞伎に通じる。立派な演劇の文化があるのに、今は、録画に頼るテレビや映画の画面が主流であり、映像加工技術やレベルの低い脚本で、素人でもすぐに役者になれる。しかし、そういう人は、舞台には立つことはできない。

 

芸術といえば、何かしらピアノやバイオリンなどのヨーロッパの音楽だの、油絵や水彩画などこれも西洋からの文化が重要視され、もてはやされて来た。よくクラシックのコンサートに行くが、やはり、日本人の演奏家の中には明らかに、もともと存在しない貴族のように、観客を見下した態度をとる人がいる。クラシックは偉いんだと。お前たちに聞かせてやっているんだと。このような錯覚をしている人はとても多い。

 

さて、浅利慶太さんが亡くなった。劇団四季の発声法とか、取り巻きのファンであれば知識人として安心安全という観客の薄っぺらい態度は嫌いだが、演劇界に与えた影響は多大である。考え方は保守だが、行動は革新である。まるで阪急電鉄の創業者の小林一三に似ている。人がやらないことをする。新しい視点を持つ。

 

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役者も裏方も同じ。

このような理想も、今の劇団四季にはない。四季経験者は、スターを大切にし、裏方を卑下する構図に嫌気がさすという。昨年採用の裏方も多くが辞めていき、不足は派遣でなんとかしている。劇団に派遣でというのもおかしいし、役者と裏方の差がたくさん空いているのも納得できない。四季の魂は、もうとっくの昔に破滅しているのである。

また、よく知られていることであるが、スターとなる人は、多くが韓国人、中国人である。声量といいスタイルといい、日本人は追いつけないという。楽屋にはハングルが貼られ、日本人がこき使われている。結果がこれでは、日本の演劇界を救ったかと言われれば、どうかなあという疑問がまず出てしまう。

小林一三と、似ているところは、政界に深く取り入ったことであろう。新しいことをするには、政治的な後押しもいるのだ。このあたりは加計学園の加計孝太郎も同じである。うまくやるにはお友だちであらねばならない。国民を相手にするときや、多額の費用を調達するときには、やはり、時の人を利用するのである。

 

それにしても、日本は演劇の文化としての評価は低い。東京芸大にも演劇科はない。表現の手段としての体の動きはあるが、演劇は研究するものではないようである。西欧では、まず演劇であるが、日本では、とりあえず音楽、美術なのである。音楽が、一部の貴族気取りの階級を癒すものであると錯覚している間に、演劇は、身近な娯楽として、社会体制の不誠実や人間の弱さを描く手段として、立場を逆転できるよう、期待したい。

ヨーロッパのように、かなり高等な教育を受けられる大学に、演劇が学べる学部を併設してもらいたい。

日本には小さな劇団がたくさんあり、ほとんどが貧しさと戦っている。真の意味で劇団が成り立って行くまで、その文化を根絶やしにしないようにと応援したい。くれぐれも安モン芸人ではなく。