アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

里の秋に隠された事実

秋になると必ず思い出す歌がある。

それは、斎藤信夫の「里の秋」である。

 

里の秋

斎藤信夫作詞      海沼實作曲

1、静かな静かな 里の秋
     お背戸に木の実の 落ちる夜は
     ああ 母さんとただ二人
     栗の実 煮てます いろりばた

2.  明るい明るい 星の空
     鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
     ああ 父さんのあの笑顔
     栗の実 食べては 思い出す

3.  さよならさよなら 椰子(やし)の島
     お舟にゆられて 帰られる
     ああ(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
     今夜も 母さんと 祈ります

 

子どもの頃は、何も考えず、ただお母さんと2人寂しい秋だなあとしか考えていなかった。

椰子の島と戦争が結びついたのは、六年生の頃で、太平洋戦争の仕組みがわかってきた時であった。この頃に気づいた理不尽な思いと当時の大人の考えの儚さは、なかなか忘れられない。

 

この「里の秋」は、元は「里の秋」ではなかった。この歌は1945年制である。戦後すぐ、なにやら、しみじみと父の帰還を待ちわびる歌が歌われるなど、タイミングが良すぎるし、ひょっとして戦中に、やがて来るであろう時代を読んだのかとも思ってしまうのである。極悪憲兵には、見つからなかったのか?それとも、でっち上げ特高警察にもバレることもなく、お節介な隣り組にも、未だ自らのことを蔑んだ言い方をしている女性蔑視の告げ口集団の大日本国防婦人会にも、いちゃもんをつけられず、この斎藤さんは生きていたのかと思っていた。

実は、この斎藤さんは、小学校の先生であり童謡作家を夢見て終戦の数年前に新進気鋭の作曲家の海沼實に、詩を送っていたのだ。

戦時中なので、小学校は国民学校であり、教育の内容は、大日本帝国の臣民としてのイエスマン製造が目的であり、多くの先生が、子どもを軍人として育て、将来の夢を書き変えさせていったのである。君はよくできるから、陸軍少年飛行兵に、いや、君は海軍飛行予科練習生へと、当時の教師はさながらアフリカの奴隷商人と化していたと言っても過言ではない。だから、教育に対する自分自身の希望と理想を文部行政や軍事政権により踏みにじられた教員は、戦後、日教組に集結し「再び教え子を戦場に送るな」という、スローガンを掲げ、文部省からの命令伝達に対し、主張をするようになったのである。

それを嫌う、自由党をはじめ、のちの自民党は、なかなか指導になびかない教員に対する官僚の不満を受け入れ、反日教組というプロパガンダを展開して、すっかり日本の教育をダメにする集団であると国民に擦り込でしまったのである。そんな経緯も知らない若者や不勉強な親たちは、まんまとその手に乗り、しかも、ネトウヨとして組織された若者や自民党系の宗教団体の助けを受け、国民の世論形成を歪めてきた。これは、知っておかねばならないことである。問題を起こしている教師は、青空教師がほとんどで、組合員ではない。政府は、社会問題を教育に責任転嫁しているだけで、実際、道徳教育をすれば、犯罪やいじめがなくなることはなく、そのことは、子どもも現場の教師も、一番知っていることである。罰も何も与えられない教育の現場には、子どもの心的な変化を求めるには、授業しかないが、それも画一的で、教師のパーソナリティが働く余地もない。

 

さて、斎藤先生は、最初は、戦前に「里の秋」ではなく、「星月夜」として、やはり国威発揚の曲として作詞した。

その詩は、

                   「星月夜 」        斎藤信夫作詞      

1、静かな静かな 里の秋
     お背戸に木の実の 落ちる夜は
     ああ 母さんとただ二人
     栗の実 煮てます いろりばた

2.  明るい明るい 星の空
     鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
     ああ 父さんのあの笑顔
     栗の実 食べては 

3. きれいなきれいな 椰子の島

    しっかり護って  くださいと

    ああ  とうさんの  ご武運を

    今夜も  ひとりで  いのります

4. 大きく大きく  なったなら

    兵隊さんだよ  うれしいな

    ねえ  かあさんよ  僕だって

    かならず  お国を  護ります

 

となっていた。

太平洋戦争が始まり、戦意高揚の気分を盛り上げるために、開戦間も無く、斎藤先生はこの詩を作ったのだという。

この詩を送られた作曲家の海沼は、長く返事は書かなかった。

しかし、戦後、NHKのラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、童謡歌手の川田雅子の新曲が必要となった。そこで、斎藤先生は、急遽NHKに。いや海沼さんに呼び出されることとなる。3番以下の詩が、戦後の歌としてはふさわしくないので、3.4番を廃棄して、復員兵のために新たに3番を書き足してほしいという。斎藤先生はすぐに駆けつけて、3番を書き上げた。

一方で、この新生「里の秋」は、当時生番組であったラジオ番組で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けてスタジオで歌われた。曲が終わった時、スタジオは感動のあまりに、一瞬静まり返ったという。

もちろん、放送直後から多くの反響があり、NHKの電話は、問い合わせとリクエストで鳴りっぱなしになった。そして、翌年に始まったラジオ番組「復員だより]の曲として使われたのである。

 

国の求めとして、出兵した人たちは、お国のために死んで身を捧げよという、臣民としての作られた使命感により、行動はあくまでも徴兵を喜び名誉として受け入れるものとして、規定されていたものの、実は家族があり、決して死んではならないという、切実で当然な家族の思いがあったのである。死んで靖国へ行こうと、なんの根拠もない作られた美徳を掲げ、天皇のためにと自らの辛さにさらに国の辛さを背負わしながら、多くの兵士たちは、悲しみを見せないという決められた行動をとり、家族もまた、感情を出さず涙も見せず、父や夫や家族、息子や恋人を戦地に送ったのである。人としての感情までコントロールされ、行動を規定されてしまっていた時代に、それぞれの、価値観を持ち合わせた曲なのである。

一気に3番を書き終えた斎藤先生は、後年里の秋を振り返り、「3番がなかったらヒット曲にはならなかったでしょう。しかし自分としては3番はなくても良かった。里の秋のような歌で喜ぶような人がたくさんいるような世の中は、あまり迎えたくありません。」

と答えている。

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やはり平和を祈る教師の姿である。

 

なお、ユーチューブでは、自民党のバカ議員が 星月夜こそ斎藤先生が伝えたかったことであると事実誤認、変態の主張をしているので、無視をし、そんな奴らが憲法改正を叫んでいることに騙されず、その議員がこれ以上国民をバカにした発言をしないよう、祈りたい。