アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

今日は地震の日

阪神淡路大震災から24年。もう直ぐ四半世紀を迎える。次第に当時の様子を知る人も少なくなり、その後発生した数多くの災害のために、一人一人がすべきことや緊張感が希薄になり、防災の専門家が言う、理想のみをかいつまんで、災いの備えにしている人も多い。

今日は、誰がなんと言おうと、自分は今何をすべきかを考え直す日である。普段何も考えていない人も、災害で自分を守るには何をすべきかを想像してみるといい。また、余裕のある人は、月旅行だとか月収いくらだとか、またまた、ホストにいくら貢いでいるのだという、くだらない情報から離別し、真に人を助けるということはどういうことなのかを、イメージするといい。

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わたしは、阪神淡路大震災の朝は神戸にいた。マンション住まいであったが、幸いビルの崩壊は免れた。いち早く、木造家屋に住んでいた両親の元に途中パンクしてしまった自転車で駆けつけ、ガラスを割り、鍵を開け、瓦礫に埋まった親を引き出し、人工呼吸で助けた。近くの神社は鳥居が崩壊し、多くの家屋がペシャンコになる中、昼前にはあちこちの家の前に白布や毛布で覆われた遺体らしいものが見られるようになった。ヘリコプターは、上空を飛び回り、あまり話し声も聞こえない中で、登山用のスコップやロープを使って人命救助を行った。わたしのいたところは、火の回りは遅かったが、ヘリコプターの音で人の声がかき消され、速やかな救助はできず、間に合わなかった人もいた。亡くなった人の多くが圧死であった。

中には、家族全員が、という場合もあり、どこにいるのか、無事なのかわからないので困ってしまった。

災害の時は、自分で何ができるかということが大切である。そのためにも、心臓マッサージだけは覚えておきたい。必ず役に立つ。

わたしは、幸い、プールで小学一年生を、バス停でバス待ちの老人を、そして自分の親と、今までに3人の命を助けることができた。条件にもよるが、3分以内になにかしないと助けることはできない。

また、夜はどこに寝ているのかを知らせておくことも大事だ。防犯上、限られた公表にはなるが、誰かが知っていることも必要である。

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さて、避難所となった近所の小学校には色々なものが届いた。夕方の5時には、山口県赤十字病院の救急車が到着した。2名の医師と、4名の看護師が乗っていた。夜には、姫路からきたという男性が、両手に袋いっぱいのお菓子を買って子どもに配っていた。2日目の夜からは、やっと食事が届き始めた。ヤマザキ製パンは、琵琶湖の工場からヘリコプターで焼きたてのパンをピストン輸送してくれた。青森からは、農家の人が自分の家族用にと置いていたリンゴを送ってくれた。和歌山のみかんも、見てくれは悪いが、低農薬のおいしいみかんであった。救援物資には、みんな自筆の手紙が添えられていた。子どもが小さかった我が家は、たちまち紙おむつの山ができた。熊本のラーメンも、香川のうどんも、避難所に来てくれた。歌のプレゼントも、マジックもあった。五木ひろしショーも野外の商店街跡であった。

我が家は、電気が復旧するまでの半月間だけであったが、全国の人に本当によくしていただいた。だから、膝が痛くても、被災地にボランティアで行くのである。

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しかし、腹がたつのは神戸市の行政である。1979年に神戸で日本都市景観学会が開催され、地学や地理の専門家が、兵庫県民会館でこれからの神戸の都市構想について意見交換をした。ちょうど、次の年にポートアイランドが完成をするのを見越して、海を埋め立てて景観を変えることが、市民にとってどうなのかというテーマでもあったので、神戸市の都市計画課以下何名か役人も来賓で来ていた。

わたしも人文地理学会の学生として出席したのだが、会長の藤岡健二郎京大教授が、港の改造もいいが、神戸の港の発展に尽くした兵庫区や長田区の南部に住む人々は、やがてくる神戸の活断層型の地震で被災し、家屋が壊れ火災が想定されるため、地下に水槽を埋め込み、消火できる装置を作るべきではないか。と提案した。その当時から近く地震が来ることは知られていた。1965年に大坂市大の調査で50年以内に神戸を中心とする直下型地震が発生すると言われていたのである。地震は必ず起きると、子どもであったわたしも、胸に刻んでいた。藤岡会長の具申に対して、神戸市の役人は、今NHKドラマで注目されている風見鶏を中心に、神戸の街をオシャレなファッショナブル都市として生まれ変わらせますと、どうどうと拒否した。もちろん出席していた友だちは、なんじゃこりゃって顔でこちらを見た。帰り道、役人の無関心さとバカバカしさで、哀しさよりバカバカしさがこみ上げ、みんなで大笑いした。こんな馬鹿な奴が神戸市を動かしているのかと。震災の17年前である。

 

羽振りが良く、神戸市の別称であった神戸市株式会社は、震災で多くを失った。それは、あの馬鹿役人主導の施策をしたからなのだ。それほどの失政をしたのにもかかわらず、当時の役人は市長になり、相変わらず、市民無視の強欲な施策が続いてきた。

今はさらに、勉強だけ頑張ってきた輩が、人の意見も聞かず、相変わらず好き勝手に振舞っている。マリオネットのような、目線の合わない冷酷な輩が、市のトップでいる以上、またまた、南海トラフでは、市民は露頭に迷うのである。

ぜひ、オール与党の神戸市会を改革するべく、つぎの統一地方選では、市の強引な施策を批判検証できる武骨で、視線がきっちり合う議員を選出したい。