アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

児童相談所は解体を

個人情報に対して、あまりにもうるさい日本になった。学校でも、クラスメイトの電話番号も、住所も知らない。担任の先生の居所もわからないのである。

みんな仮面をつけて生活している。実生活でも、ネットでも。

学校の先生は、実名で仕事をしているが、警察官や役人は、その職業の名を使い仕事をしている。それは学校での校長先生と呼ぶのに似ている。失敗しても、個人ではなく、組織任せにする。どんな悪徳の警官でも、根強く訴えない限りは、悪事はあの連中にもみ消されてしまう。

この体質が、児童相談所の連中の中にある。とにかく、役所として他人の立場を貫く。目の前の子供の苦しみは、多くの教師にとってはなんとかしなければならない自分としての痛みになるが、児童相談所の、役人にとっては、他者の戯言であり、自分には関係のないものなのである。

さて、この間、何人の子どもが犠牲になったのだろう。戦争もしていないのに、難民もいないのに、子どもが大人に殺されている。必死のSOSも、児童相談所の他者や、さらには、超暴力高卒集団の警察官に、届かない。

もともと、2つとも、知的レベルは低く、他人の心理的状況や、子どもの気持ちなど想像できない連中である。

かつて、神戸の児童相談所のある女性課長が、虐待が手遅れになるのは教師のサボタージュだと講演したことがあると、おでん仲間の教師から聞いたことがある。役所に勤めているデスクワーク専門の職員が、臨床の現場に唾を吐いているのである。児童相談所の連中にとって、子育ては指導できるものであり、面倒くさいことはかかわりたくないものなのである。

だから、なんども同じことが繰り返され、誰も責任を取らない。

もう、虐待している大人は、ニホンザルと同じ。自分の子供でなければ、とことんいじめ抜いて殺してしまう。猿の習性と同じなのである。そんな猿相手に、家庭訪問をして、いなかったから、あっていないという言い訳が、大人の仕事なのやり方として許されるのであろうか。それこそ、サボタージュなのである。

今回も3週間の間に7回家庭訪問に行ったという。

学校なら、その日のうちに絶対に親に会う。会えるまで会いに行く。それが大切でそうしている教員は多いらしい。

その反面、児童相談所の連中は、所詮他者の事案であり、私のことではないため、私のことの後になるのである。5時に帰り、苦しんでいる子どもをそっちのけで、休日を楽しんでいたのである。

そんなことで、給料をもらってるなんて、許されるのであろうか。

組織を解体し、24時間体制の組織にしなければ、児童相談所の上から目線は変わらない。

即刻解雇を。