アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

学校へ行く意味? ①

世の中、新型コロナ対策で、人の行き来が制限されると、やっと家に本当に長く放置されている子どものことについて、認識するようになった。3月の上旬からすると、学校が閉鎖されてから、もう2ヶ月にもなる。

簡易な卒業式をしたり、入学式がなくなり、入学説明とやらで、教科書をとりに行ったり、新学年の教科書をとりに行ったりしただけである。

5月のはじめまでの休校が、なかなか改善しない感染者数や、なくならない三蜜状態、パチンコ営業、能天気な国民に怒り心頭の行政はまたまた、5月の終わりまで伸ばされた。それはよくわかる。

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そうなると一部のポピュリストが、それならもういっその事、9月始業にすればと降って湧いた無責任なことを言い始めた。同時に、ほぼ国民の支持を失い、今までの嘘を見抜かれてしまった首相も、にわかにそれもいいなあと、いい加減なことを言い始める始末。

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もともと、何のアイデアも、何のポリシーもなく、ただ、自分のじいさんが念願していた、憲法改正が自分の政治目標でしかなかった首相は、新たな危機にもう太刀打ちはできないであろう。賢くもなく、官僚に操られた政治であることは周知の事実であり、首相こそがリモートである。

この間、学校では、一向にはっきりしない学校再開と、それまでの家庭学習の準備、子どもの指導のやり方について議論した。しかし、突然の、世論の圧力に絆されたオプティミストである首長の判断が、学校を混乱に貶めているらしい。

 

安直に、9月始業にしたらというオプティミストもいるが、それは多くの社会変化を伴う物だから、たっぷり議論しなければならない。またまた、ポピュリストの親玉が出てきて、こんなこともできないのですかと、どっちみち偉そうに言うのだけれど、安易に受けてはならない。

それどころか、教育そのものが、通信でできるだとか、家庭学習でと言っている人や、さらには、年間何時間勉強しなければならないと、先進国で1番多くの授業時数で、しかも、無駄なことばかりして夕方まで子どもを預かっている学校そのものが、本当に何をするところかと言うことを、しっかり議論しないといけない。

 

今回、やっと、学校は知識だけを習得するところではなく、人間としての資質を磨き、その後本来の能力を磨くところだと期待されたばかりなのである。

 

それなのに、いきなりプリント学習などありえないし、一方通行の指示や、話し合いなしの概念形成だけの学校などあるわけがない。

 

そこで、何回かにわたって、友だちのおでん仲間の現場の先生の苦悩を集め、わたしなりの考えと、学者の考え、そして家族や近所の市民の意見も織り交ぜながら、考えてみたい。

 

韓国のように、ITが進んでいる国ではリモートの授業が行われるであろう。日本でも、一部の通信教育で、簡単なとりくみは始まっている。

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対面教育であれば、駅前留学があるが、それも何人か少人数のお金を自ら支払って受講している、早い話がやる気のある人向けの講座である。

 

もっと、考えなければならないのは、前者二つは、学びたいというものがはっきりしているため、ハウツーものに特化しているということである。

早い話が、教えることがあり、それさえ得れば目的を達成したことになる。

とにかく必要なものを詰め込めばいい。

 

また、受講者がやる気があるということだ。やるきがなかったり、それ以上にスイッチもつけない家が、当然出てくるだろう。そうなれば、今もサービスでやっている、朝の投稿を促す電話や朝おこしの家庭訪問などを今以上にやらねばならない。そういう家庭は、増えつつあり、学校の生活指導のほとんどが、この不登校がらみの遅刻に振り回されているのだ。親の不摂生、生活習慣の乱れ、学校否定、変な自由主義など、おおかたの場合学校が悪いというという、言いがかりにも似た理由で、学校がその責を負い、時にはあほの教育委員会もしゃしゃり出てきて、教師に必要以上の負担を負わせる。中には、朝忙しい親のために子供の朝ごはんまで作らされている教師もいるのだ。こんな現状がさらに続くとなると、教師は、親になりきれない大人の奴隷である。

 

話をリモートに戻そう。学校でしていることは、そんな単純なことではない。単に、リモートでやればいいものでもなく、ましてやオンライン飲み会のようなものではない。

 

どうして仲良くなって、どうして喧嘩して、どうやって仲直りしたかということを学ぶところであるし、そもそも、覚えるために習うところではなく、自分の思いを自分の言葉で言える力をつけるところが学校なのである。

 

だから、コンテンツをほぼ一方向に伝える行為は教育ではないし、話している時が一対一になる双方向というのも、話に発展性がなく、子ども同士の考えも深まらないのである。

 

リモートでの授業は、小中学生の学校という場では、学校本来の意味からして、もう授業ではない。

 

②につづく