アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

年間授業時間を半分にしろ

その国の水準は、教育の質の高さに比例する。

 

その昔、黒船が来航し、西洋との物質文化の格差に驚いた明治政府は、数々の改革の中で、いち早く学制を実施し、不慣れながら教育制度を構築した。

実は、西洋文化を見て触れただけで模倣できたのは、世界で稀な識字率の高さを支えた、江戸時代の寺子屋の存在が大きい。

藩校もあったが、一部のエリートだけを教育した西欧とは違い、日本のそれは金のない身分の低い庶民というか百姓まで教育をした。

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日本全国やたら読み書きそろばんに、勤しんだ江戸時代があって、学校制度に対する認識も、早くから持てたのであろう。

 

寺子屋では、授業料は必ずしも銭ではなく、大根や芋でもよかった。いわゆる先生と生徒は、師弟の関係であったので、生活というところで結びついていたのである。

それが学校にはなかった。明治5年の学制発布以来、全国各地で小規模ながら小学校が作られたものの、やがて、どちらもの人員不足から、淘汰され長く金のかかる教育は、不必要であった。

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しかし、殖産興業が発達し、人々に工場制手工業での生産活動が具体的に可視化されるようになり、また、新しく電信電話、鉄道、新聞など、新しい技術が導入されるようになると、今までの働き方であるものづくりだけではなく、第三次産業という分野が開かれた。

 

そこでは、人の能力が必要とされ、その比較の目安としての、学歴ということが注視されるようになった。学問が、読み書き算盤と言った技能的なものから、科学や地理といった別の要素が取り入れられ、それを身につけることが、次の時代を乗り越える切り札になると考えられたのである。

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いわば、今の時代のコンピュータであり、ネットのようなものである。物を調べてたくさんのことを覚えるというコンテンツ中心の教育はもはや通用しない。未だ、テレビで地誌や歴史物をクイズにし、それがさも、学力だと言わんばかりの、人の賢さの秤としているのは日本だけであろう。有名大学の学生は、たくさんの知識を持っているというのは、もう昔のことなのだ。今は、発想の時代である。それを、飽きもせず、さすが〇〇大學とか、やっているのだから、おめでたい話だ。

 

明治の学校は、そのコンテンツを大切にし、量を競わせてきた。いわば、文化遺産を構築した人の知識や記憶を留める作業をしてきたのである。まだ、人はものの時代であった。極論すれば、帝国大学は、明治の稗田阿礼今しか過ぎなかった。

 

さて、その後、教育が国家主義のお株をもらって、国民を洗脳して行ったのは周知の事実であるが、安倍政権は、連日青少年の残念な姿をマスコミに取り上げさせ、教育基本法を改悪することに成功した。うまく、戦前のように、政治が教育に介入できるようにしたのである。それゆえ、大人も知らない日本の国境問題を、子どもに学ばせ、記憶させるように教科書を書き換えている。

 

現政権がやってきた悪事は、数多くあり、賢者はもうお見通しなのであるが、今ここでの話ではない。

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学校の再開が遅れ、1年が10カ月となり、夏休みを入れても、もともと指定されていた授業時間を消化しきれない状況に陥ってきた。

コロナがまた再燃したり、昨日のように天災による休業が続くと、もはや完全に時間数を確保できないものとなる。

 

しかし、そもそも、学校で勉強する時間はどうして決められているのであろう。どうしたというと、そもそも論ではなく、どうして年間こんなにたくさんの授業時間があるかということは、明らかにされていないのである。

 

例えば小学一年生の年間授業時数は、850時間ほどだが、306時間が国語である。

小学校6年生の年間授業時数は、1015時間。国語は.175時間、

 

こんな調子で決められているのだが、どうして国語が175時間で、理科や社会という具体的な自然や社会と言語や観察を通して追究し疑問を解決していく思考教科は、ぐんと時間数が少なく、遊びである体育とかわらない。

 

しかも、諸外国は、子どもの思考を大切にし、自ら疑問を持ち解決するトピック学習や他を和弓学習が大半を占めるのに、日本だけは、発展途上国と同じように、読み書きソロバン、テレビのクイズ番組でやっていることばかり覚えさせているのである。

 

もちろん総合的な学習の時間という誠に馬鹿みたいな名前の時間があり、子どもの興味関心に即した探究授業が行われることになっているが、週にたった2時間。英語の方に力を入れるような指導もあり、ほとんどの教師は、この時間は邪魔くさいからと、教科指導や行事に当てている。脱法行為であるが、みんなしているから罰しようがない。

 

メタ認知など皆無で、今更ながら評価人の顔色を見て行動する、忖度のうまい奴が、上にのし上がっていくのである。

 

この実にいい加減な年間授業字数が、足らないとなった時に、用のないものや必要のないものが剃り落とされるのではないかと期待していたが、そんなことより、6時間目や休み時間を潰してもやり切れと、不正ばかりの馬鹿神戸市教育委員会は、通達をしているらしい。忖度とコネと金で、委員会に入った馬鹿教員は、なんの疑問もなく、元同僚や子供たちを苦しめているのだ。

 

こんないい加減なやり方で、よくぞ子どもが育つものだと感じるが、それは、国立大学を出た優秀な教員がいたからである。いま採用される教員は、偏差値48、勉強嫌い、そのくせ偉そうという類のものであり、もう何も伝わらないらしい。教員の友達からも、近所の人からも、そんな声が聞こえてくる。

 

なんとかならないか。

人手不足に加え、教員免許制度改悪で、免許更新が10年に一度行なわれ、委員会に提出するしょうもない書類や、会計、払わない給食費不登校、学校内暴力、モンスターペアレンツ、嘘つき、脅迫、長時間労働など、もう学校は崩壊寸前。というか、もう崩壊状態である。

 

今一度、学制を発布し、正しい教育のあり方を整理してほしい。自民も公明も維新も何をするか分からないから、ぜひ、国民民主と林修池上彰など、きちんとした道筋がある人に、提言をしてもらいたい。

 

わたしがしてもいいんだけどね。