台風に思う
気象観測の精度が上がって、かなり細部にわたる予報がされるようになった。
それは、アメダスなどの情報が精密になったことによるものである。
一方で、天気予報は、コンピュータを駆使しすぎなのか、あまりお天道様のご機嫌具合を聞けないことが多い。
梅雨に入ってからの雨予報は散々な結果である。
これも勢い余って予報を細分化したためなのかもしれない。それにしても、あの自信とやらはどこから来るのか?
ひと昔もふた昔も前に、等圧線をまだ手で引いていた頃の方が、緊張感とベテランの勘が調和し、良かったかもしれない。事実、漁師さんや山小屋の人の天気予報については、もう予知と呼ぶべきものである。そんなことを引き合いに出したら、
今、ぱらっと来たでしょう、だから雨なんです、と、居直られてしまうのがオチである。
さて、警報や注意報を見ていると、こんな地名になったのだとか、合併したのだなとわかることがある。それはそれでいいし、実際、気象は地形にも関係するのではあるが、どうして広い空の状況を狭い行政区分に反映させるのかがわからない。
台風に至っては、一人として亡くならないよう、万全の体制で臨まなければならない。
それなのに、一旦災害ともなれば、県知事以下、まっさらの作業服に身を包み、こんなの初めてだもんね、おんぶされないように長靴履いておこうといやに緊張しながらも、そこそこ頑張っていたのではないかと思わせる様子が放送される。本当は、災害が起こるまでに、全身全霊をかけて、非常事態に備えるのだ。
例えば、西日本に上陸というなら、県単位でバンバン警戒の注意を出し、みんなで家の雨戸を押さえ、歯を食いしばってお年寄りを背負い避難所に向かう。
被害の出なかったところも、被災地にわっさわっさと勝手に応援に行くなど、みんなで守り抜く態勢がとれないものか。
今朝は、学生はみんな困った。
こんな時は、いっそのこと、休みにしてみんな家にいるようにできないか?
いや、そんなことしたら、遊びに行ってしまうって?
だめかなあ。
天災は忘れた頃にやって来る 寺田寅彦
別れはいつもついてくる
幸せの後をついてくる 中島みゆき