庶民を舐めるな2改
文章を書いて投稿しても、より良い文章に仕上げようと、何度も見返すようにしている。昨日、校正しようと、下書きに戻しているうちに、消去してしまった。
説明をしっかり読まないで、いままでの経験で勝手にやってしまう。そういう失敗がたくさん出て来るようになった。
さて、このタイトルは、確か文科の体質と、小耳に挟んだ教育界の癒着の話を紹介したはずである。世の中の不正は、どういうわけか見える人、感じる人、リーダーとして訓練を受けた人なら、いくらでも見つけることができる。
公務員の不正なんか、もう平安時代から藤原氏などがガンガンやっていて、菅原道真らは、その矢面に立たされた。狭い世界なので、敵味方をはっきりさせるとわかりやすい。
まあ、実力主義と言いながら、査定をするのが人間である以上、不正はまかり通る。
文科は、許認可の枠が少なく、利権という甘い汁はあまり吸えない役所である。しかし、科学技術振興やスポーツ振興という未来志向の行政も請け負うことになり、かなり迷走している。
しかし、予算はつく、許認可の枠は広がる、何しろ天下り先が増えると、役人にとって千載一遇のチャンスなのである。そこに大学認可の依頼が来た。
実に分かりやすい。単なる目配せではないはずだ。誰が、いつどう動き、どんな得をしたのか。それを調査すると、わかって来るはずだ。それより、もううわさで伝わっていることの方が、真実である。それを関係ないと平然と言ってのける官邸や、その取り巻きコバンザメ議員や役人の、小賢しい演技を見るのも愉快である。ある面、吉本の上を行く。
上級役所である文科が、そのぐらいなので、地教委はもっと面白い。全て具体的なものが行き来する。誰がよくできるか、誰が指導者として適材か。
地域も学校も違うのに、おしなべて比較することは無理である。まして、子どもが違う。学年も違う。
それなのに、管理職になることを希求し、何とか主事になって、人の上に立った。と、ほくそ笑むためには、じぶんよりできる人を蹴落とすしかない。
これは、どこの世界でもある図式であるが、特に子どもや親が対象となる甘い世界では、なかなか明らかにならない。子どもには甘く、親には適当に可能性を伝え続けると、たとえポンコツ教師でも、てきめんにいい人になれる。
校長、教頭べこ一頭という昔話は、今でも生きているらしい。
人を評価するということに数字を持ち込むことは難しい。全国学力調査テストも、もうやるべきではない。紙のテストでは、どれだけ知っているかということしか測れない。人の力は知識だけでないのは体験的にわかるのに、まだやっている。PISAテストの成績アップのために。大手受験通信講座会社のために。
こんな公序良俗を乱すことが、身近なところで行われ、税金が投入されている。テストが誰に採点され、誰がそのデータを活用?しているのか監査しなければならない。学校も、もっとビジョンを持つ人を校長に採用し、各学校ごとに考える力をしっかりつける独自のとりくみを構築しなければならない。そのためにも、文科も全国の地教委も、丸ごと掃除しないといけない。
こんな簡単な大切なことも議論せず、また英語の時間を増やし、考える力を本気でつけていく、海外では当たり前の総合的な学習は、ますます軽視されるようだ。
日本の夜明けは来ないかもしれない。