ディズニーランド物語1
まだ小学生の頃、その頃のアメリカへのあこがれは、すごかった。外国人を外人と呼んでいた頃であり、欲しいものは何でもアメリカにあった。
「うちのママは世界一」や「パパは何でも知っている」などのテレビドラマでは、部屋の電化製品の多さや、その大きさをいつも羨ましく思っていた。それ以上に、家の大きさ、体の大きさも憧れであった。何部屋もあり、ダイニングから自分の部屋に帰って行く子どもたちの姿を見て、やはり戦争に負けたのだと感じた。
「海底科学作戦 原潜シービュー号」では、アフレコの意味がわからくて、外人が日本語を勉強して話していると勘違いしていたが、近所のおじさんに、そうではなく、日本人が化粧をして、外人になりすましていると教えられ、長くそう信じていた。
「ライフルマン」「ターザン」「ララミー牧場」などのテレビドラマで見る外国は、素晴らしく、何でもまねをした。
幼稚園の時にはライフルを、一年生では、2丁拳銃をサンタクロースにもらい、胸に保安官バッジをつけて、町内をパトロールした。
当時は、犬は番犬であり、猫はネズミ捕りという、立派な家族としての役割があった。犬も猫もその願いにしっかり応えてくれていた。そういう社会に風穴を開けたのが、「名犬ラッシー」であり「わんぱくフリッパー」である。本来とは別の活躍をして、人間を助ける動物の登場である。
イルカは飼えないし、フロリダほどの広大な湿地帯はない。イルカは飼えないから、もう自分がイルカになるしかないと、プールで立ち泳ぎをし、跳び上がって後ずさりして泳ぐのが小学生の間で流行った。今で言うと、シンクロの先駆けのようなものである。しかし、ラッシーなら何とかなるかもと、コリーを飼うのがブームにもなった。家では、白いスピッツのチコがいたので飼えなかったが、学校の帰りによく道草をして、友達の家のコリーを触りに行った。
ディズニーランドの話がまだかとお怒りの貴兄に、そろそろ金曜日の午後8時の話をしていきたい。8時からは、三菱ダイヤモンドアワーとして、プロレスとディズニーが、交互に放送されていた。
当時大人気であったプロレスでは、試合の開始前やCM中には三菱電機の掃除機「風神」でリングのマットを掃除し、それをアナウンサーが、必ず解説していた。そんなにも、プロレスをすると床が汚れるのか、そりゃ土足だからだと変に友だちと納得し、プロレスごっこをする時には、次の試合の開始までに、誰かが風神で掃除する真似をし、臨場感を高めた。
プロレスがない週はディズニーである。その日は、プロレス好きの父は少しがっかりしているようで、子どもながらよくわかっていた。ディズニーが、始まっても、子どもたちは、油断してはいけない。
番組は、4つの国に分かれていて、それをウォルトディズニーが様々な解説をし、ティンカー・ベルが妖精の粉をふりかけて、お話を選んでくれるのである。
TOMORROWLAND(未来の国)
FANTASYLAND(お伽の国)
ADVENTURELAND(冒険の国)
FRONTIERLAND(開拓の国)
中でも、お伽の国は、アニメであったため人気があった。同時に、星に願いをが流れ、何とも幸せな気持ちになれたのである。
中には、当時カリフォルニアのロスアンゼルスに建設していた、ウォルトの夢の街、ディズニーランドの紹介もあった。
それを見ていた父は、ビーバーも大人になればいけるかもしれないなあ。とポツンと言った。そうであってほしいと願ったが、何しろ、当時の日本人の目標は、ハワイである。カリフォルニアなど、夢のまた夢で、庶民は何とか、ロート製薬の「アップダウンクイズ」に出場し、10問正解して、ハワイへ飛行機で行くことを願っていた。
新婚旅行での定番は、宮崎。伊東に行くならハトヤ、電話はヨイフロ。当たり前田のクラッカー。美味しいとメガネが落ちるんですよ。などと言いながら、誰もが豊かになりたかった時代である。
今や、その時よりはずいぶん豊かになった日本は、中国人や外国人の自己本位の行動をたしなめるが、今から半世紀前の日本人も、変わらなかったのである。
その後、何とか大人になり、大学生の時から海外旅行に行けるぐらい、日本は豊かになるのであるが、それは次のお話。
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回をお楽しみに。
がんばります。指疲れました。