本当に都道府県代表なの?
暑いのに大丈夫なのだろうか。甲子園名物かち割りが、あるといっても、選手は暑いだろうなあ。あの紫外線は、何十年後身体にどんな牙を剥くかわからない。
夏の大会は、予選を勝ち上がってくるため、練習を含め、大変長い時間、炎天下でダメージを受ける。昔は、日焼けとニキビは青春の象徴であったが、どちらも今はアウトである。
すぐに、高野連は、教育の一環であると、まるで高校の野球部員に、世の中の高校生の努力と夢の代表として、宝塚ばりの、「清く、正しく」を兼ね備えていることを求めている。名前も特別に「高校球児」と、呼びまさかの神聖化をはかっている。
高校野球は、様々な問題点がある。
まず、私立高が優勢であるということだ。野球に特化して、優秀な選手を集めている。寮を完備し、カリキュラムも工夫し、ナイターでも室内でも練習ができる設備を備えている。野球に特化しているから、プロ並みの選手が多勢いる。甲子園に出場し、常連校になれば有名になり、入学者は安泰になる。スポーツを利用したこの図式は、多くの私立大学が採用し、優秀なアスリートに下駄を履かせて、入学させている。
これを、和歌山県で言えば、男子が通える私立高がなかった時代は、県立高校が常連校であった。優秀な監督に、優秀な選手が集まった。春夏連覇や、伝説の18回もあった。しかし、私立高が出来てからは、県立高校は、劣勢である。
生徒本来の姿なら文武両道がふさわしい。しかし、野球のみに特化しているのも事実で、そうしなければ今のプロ野球は、もたないのかもしれない。
次に、先ほどの話と重なるが、選手集めが都道府県を飛び越えてしまっているということがある。プロ野球選手になるためには、まずは甲子園に出て、活躍するのが基本とされる中、選手は、とにかく代表校になりやすい高校を目指している。現在メジャーリーグで活躍している選手も、兵庫県の中学から、北海道の高校を受験し、甲子園に出場した。もう、県民の代表とは呼べないのである。
第3は、高校生らしさを何に求めるのかということである。選手それぞれの美談が紹介され、プレーが精神的な精錬さに由来しているかのような大げさな扱いを受ける。少しでも、らしくないことが明らかになると、そうあるべきであると、勝手に線を引いて処罰する。何か、オッサンの、意地というかロマンというか、そういう油臭いものを感じてしまう。表現は悪いが、多くの場合、高校の野球部は、汗臭く、決して繊細なものではない。
最後に、このままずっと男で行くのかということがある。女子マネージャーが、公式練習にグラウンドから排除されたという話があったが、この時代、まだそんなことを言っているのか。という、馬鹿馬鹿しい思考パターンに、一気に冷めてしまうのである。高校野球は、神事であるから、それは変ではないという人もいるが、理屈が、通らなくなった時点で、その部分を再考しなければならない。選手もマネージャーも、闘う同士なのである。実際、可哀想なことに今年は女子マネージャーが、ランニング中に亡くなった。同じ立場で、同じ目標で闘っていた証である。これを指摘すると、だから女子は、体力がないから無理なのだと、高野連の、おじんはつけ込むだろう。しかし、高野山も昔は女人禁制であったのだ。あるべきものしか守らないなんか、能力のない人間がすることである。相撲など、あれほど外国人ばかりで、何をしてるかわからない事に落ちぶれてしまっているのに加えて、土俵は未だ女人禁制なのである。
そんなこんなで、高校野球の問題点をあげつらってきたが、実は、ビーバーの出身校も、甲子園出場校である。何かの拍子で、一度だけ出場できたが、同窓生である子どもと、喜び合った。子どもは応援に行けたものの、残念ながら応援には行けなかった。グッズをたくさん買った。
やはり、時を超えて青春が、それぞれに蘇るよさがあるのである。
ちなみに、甲子園球場は、兵庫県西宮市にある。阪神甲子園駅の、駅近であるが大阪のものではない。民放のアナウンサーは、大阪代表を地元大阪と、表現することがあるが、いつも地理的な学力を疑う。