花子とアン
朝のBSでは、花子とアンを放送している。朝ドラの再放送だが、なかなか話がいい。役者はうまいし、脚本もすばらしい。今日の、三女のももの別れは、やはり泣ける場面だった。
脚本家は中園ミホ。
「ハケンの品格」や「ドクターX〜外科医・大門未知子」など、ヒットドラマを書いている。来年度の、「西郷どん」の脚本も手がける。
あまり、脚本家に注目していなかった自分が恥ずかしい。
日本は、役者や、芸人中心主義で、舞台に立ったり、テレビに出たりすると、たちまち勝者になる。
その台本を書いたり、演出をしたり、番組の骨組みを作ったりする、そもそも1番肝心の、何もないことから作り出す人を、非常に軽んじる傾向にある。
面白ければ良い、その場で笑えれば良い、それ故に、メッセージ性など何もない。テレビで言えば、バラエティーばかりがまかり通り、クイズ番組の花盛りである。
この傾向は、あの、やたらファンが多いい、劇団四季でも同じらしい。入手した情報では、裏方がどんどん辞めていくという。あんな、コピー劇なのに、役者だけ、ものすごい高い給料をもらっている。裏方は、ほとんどが、派遣である。
そんな劇団だから、創造的な劇は生まれない。子ども向けの、劇も、脚本が曖昧で、あのもともと奇妙な発声法も伴い、気持ちの変化や、感情の深さが、全然伝わってこない。もはや、自己満足の世界なのである。それなのに、ファンは、ファンであり続けることが、何かのこだわりであるので、辞めない。だからますます思い上がる。
また、小学校には、ただで見せてやろうと、招待をする。それならと、小学校は、ただで劇を見るといい経験になりそうだ、去年も見せたもんねと、安易に学校行事に組み込まれてしまうらしい。
断ればいいのに。
反対に、西欧諸国では、監督、脚本家、演出家が、重要視される。
日本は、長く、室町時代に作られた戯曲を受け継ぐということをしてきた。能や狂言である。それが、江戸時代に、近松門左衛門が出たものの、芝居小屋では、やはり、演じ手の良し悪しが話題になった。役者絵がはやる一方、逆に、話の内容は、どこにでもある不満として共感を呼び、作者の名は残ったものの、演出家がいたのかどうかもわからない。
しかし、裏方は、大切である。情景づくりや、雰囲気づくりは、役者が演じる内容の、説明責任を果たす。
だから、演出家をしっかり意識していきたい。
そういえば、三谷幸喜の、あの、面白さに一時ハマった時期がある。マジックアワーなど、主人公の佐藤浩市の、面白さに腹を抱えて笑った。
永六輔も、安部公房も、市川森一もみんな劇を書き、脚本を書いた。当たり前の話なのに、頭の中で、繋がっていなかった。
大好きな、ゴーゴリーの検察官も、戯曲である。
今の朝ドラは、「わろてんか」であるが、うちでは、「花子とアン」を録画している。アーカイブでも見られるが、DVDで残しておきたい。