修学旅行の思い出〔今週のお題〕小学校編
阪神間の小学校の修学旅行と言えば、必ず伊勢であった。学校がすることには、親も地域も何も干渉しない時代であった。たとえ子ども同士、殴り合いの学校間トラブルがあっても、とにかく学校には知られまいと、親兄弟を騙し、何もなかったように平穏を装うことが、一番カッコよかった時代である。
秋の大遠足と言えば、
1年生では少し離れた大池。
3年生では山陽電車に乗って姫路城。
4年生では観光バスで京都観光。
5年生では同じく観光バスで奈良観光。
そして6年生では、専用列車で伊勢へ。
鳥羽に泊まり、外宮と内宮へ。
お土産を買う。
というように、次第に距離も伸び、6年生の修学旅行に向けて、巧みに訓練されていた。今振り返っても実によくできていたと思う。
修学旅行の集合はどこだったか忘れてしまっていたが、滋賀県の草津から関西線を走って伊勢に向かったことはおぽえている。そこまでは確か電気機関車だと思うが、そこから蒸気機関車であった。
その頃は、鉄道沿線で走る列車に手を振る習慣があった。反対に車内から車窓の人に手を振ることも当たり前であった。とにかく、神戸港の別府航路の出航にも、まだ紙テープが使われていた時代である。わずかの旅行でさえ、別れ際には、手を振り振り返していた。
当然、関西線では、開け放たれた車窓から、秋の収穫前の田で働いている農家の人たちに、声をかけ続けた。何人かの人が振り返してくれたのを覚えている。客車を牽引しているのはC57で貴婦人と呼ばれている蒸気機関車であった。
当時は、客車のトイレは垂れ流し式であったため、窓から顔を出すと細かな水滴が顔にかかった。機関車好きの友だちは、知ったかぶりをして、これは機関車の蒸気だと言って顔を出しては喜んでいたが、蒸気機関車は、随分前を走っていた。
単線で、臨時列車であったためか、ものすごく時間がかかった。車内で弁当を食べ、おやつを食べてもなかなか着かない。退屈で仕方のない女の子が客車の一番後ろにあった赤い丸い木の握りがついた紐を引っ張った。そのとたん、列車に急ブレーキがかかり、止まってしまった。
非常停止の連絡紐であったのだ。何気ない友だちの悪ふざけに30分以上待たされることになり、旅行の間、学校の代表として頑張ろうと張り切っていたクラスメイトは、一気に意気消沈してしまった。
でも、担任の先生は、叱らなかった。そんな大切なものがあることを知らせていなかった自分が悪いと、友だちに誤っていた。この話は、同窓会でも話題になった。
外宮と内宮に行き、ものすごい勢いで見学した。とにかくしんどかった。このあたりのことは、五十鈴川で手を洗ったことしか覚えていない。残念だが。もっとわからないのは、2日目だったかも知れないということ。とにかく、外宮も内宮もということで、大変なスケジュールであったであろう。
夜は鳥羽の木造3階建ての旅館に泊まった。男子は大広間でみんな一緒に寝た。どういうわけか、2人に一枚の布団で、はじめは仲良く隣り合わせで寝ていたのではあるが、あっという間に布団ははだけ、友だちもどこかへ転がって行き、朝にはお互い逆向きに寝てしまっていた。
夜は、鳥羽の土産物屋さんで土産を買った。当時はあまり洒落たものはなく、ペナントや、生姜糖、五色豆、赤福ぐらいが土産の定番であった。
ミキモト真珠島には、船で渡った。わずか、3、40メートルしかないところを、小さな連絡船がひっきりなしに通っていた。後に、この連絡船で大変な事故が起きた。
おなじみの海女の実演を見て、海女さんが鳴らす磯笛がしばらく流行った。
なんだかんだで、列車に乗り込み帰った。帰りのことはあまり覚えていない。
まだまだ、日本人が貧しくても正直で正しく、他人に親切に生きようとしていた時代の修学旅行である。