こんなのに大阪任せていいの?
大阪の、日本維新の会の吉村市長が、先程テスト結果の出た全国学力テストについて、政令指定都市の中で、最下位だったことを踏まえて、テスト結果で教員のボーナスを査定すると発表した。
またまた、維新の魂胆が、はっきりと見えたのだが、新自由主義をうたう彼らは、自己責任、格差社会を目論んでいる。だから、誰がなんと言おうと、絶対権力をほしいままにできる都構想をぶち上げ、カジノも急いで承認させた。
大阪にも、ノリやおもろさではなく、しっかり考えられる人もいるだろうが、この、馬鹿な吉村の発言が、教職員の人権にも抵触することとして捉えられるだろうか。
大阪の学校は大変である。
まず座っていない。いえば逆らう。親がねじ込む。勤務評定が異常で、阿呆らしいぐらい細かな査定がある。
成績は、家庭のあり方にかなり左右される。家で、お前はボケかとか言っている家庭では、じっくり考える子どもは育たない。家庭のしつけがしっかりできていないくせに、全てを学校の責任にする。うちの子ができないのは、そのうちの子の先生ではなく、そのうちの子の親がダメなのである。トンビが鷹を産むと言われた時代があったが、それは気遣いのできる清貧の家庭があったからである。特に都市部は、親の生活も荒れ狂い、子ども中心の生活ではない。
居酒屋に出入りさせ、パチンコ屋につれていき、スマホが子どもより大切で、親子の会話はない。親は、子育ては人ごとである。そういう家庭を相手に、教職員は、何を持って正解のアプローチとするのか?
読書をしない子ども、謝らない子ども、大人を揶揄する子どもなど、子どもの変化は都市部では顕著であるが、いずれ秋田にもそれは及ぶようになる。
どうして、平均点で競うのであろうか。それが人を測る何になるのか?何が面白くて、そんなつまらんことをさせるのか?問題に答えられなかったら力がないのか?
そもそも、学力は、人によって違う。レベルも種類も、一人ひとり違うのである。それなのにこの問題が解けなかったからと、ごちゃごちゃいちゃもんをつける。
市長なら、生活の底辺の子どもを経済的に救うことを考えるべきだ。それが、想像できないと市長も人間もアウトである。
維新に傾倒している人には言っても仕方がないのだが、あなたたちは、とんでもないロジックの罠にかかっているのだ。感覚で、口から出まかせに知ったかぶりをするのが、このところの大阪市長の、特徴である。賢い人は、彼らが狙うポピュリズムや、嘘を容易にみやぶれるだろう。兵庫県は、港町があり、昔からクリティカルシンキングを磨いてきた伝統が、維新のような張子の虎は寄せ付けない。もう、時代遅れなのである。
これから、賢い人は批判して行くだろう。どうして、文科省も、学者も、吉村発言を一蹴したのか、大阪の市民は、府民や自民とともにこの奇抜で短絡的で無教養な発言の意味を考えないといけない。市民や府民は、市長や知事の僕、手下だという考え方を、捨てさせないといけない。実に恥ずかしい。
そして、一日も早く、時代遅れの新自由主義者や、独裁者を駆逐しないと大変だ。
大阪の先生は、本当に辛いであろう。教師は、教育委員会や学習指導要領、強いて言えば文科省の指示通り子どもの教育に当たっている。それが、教育委員会からして、教員の責任だと押し付けられたらやっていられない。教育委員会も教師の立場に立って、社会学の見地から、市長に噛み付かないと、役所を含めて、最下位である。