吉岡秀人さんをノーベル平和賞に
先日初めて、飛行機内で「お医者様はいらっしゃいませんか」という、アナウンスを聞いた。医師は、求めに応じて身分を明かし命を助ける義務があるというが、こんな時に人助けというのは、かっこよすぎる。幸い、何事もなく回復したみたいだが、一度はそういうことをしてみたいと思った人も多いと思う。
人が人を救うというのは、人が未だに絶滅しない一つの能力であり、基本的なルールでもある。殺し合いは、宗教や国家、食料や土地など、人が集団としてなにがしかのぶら下がりものを身につけた時に起こる。ぶら下がり物のない個人対個人では、よほどのことがない限り、そういうことは起こらない。
さて、吉岡秀人さんは、ミャンマーで活躍する医師である。小さい頃に、仕事もできず、通路に横たわる大人を見て、人を助けたいと思ったという。
命を助けたいと、医学部を受験し、より多くの命を助けたいと救急医を経験する。小児科医となった吉岡先生は、人に請われてミャンマーに渡り、子どもたちを無料で診る。しかし、外科的な処置ができないことから一旦帰国し、国立岡山病院に勤務して小児外科を学ぶ。さらに川崎医科大学の講師となり、腕を磨いた。再びミャンマーに渡り、ものすごい勢いで、どんどん子どもを治している。
もう何度もテレビで紹介されている。先日も放送された。見れば見るほど、偉い人だ。
ジャパンハートの最高顧問だ。まるで、探偵ナイトクラブでのキダタロー状態なのだ。
吉岡先生の考えは、すごくシンプルでわかりやすい。こんなことを言っている。
「可哀想だから、救いたい。
そして救いたい相手にはお金が無い。
だから無償でやる。」
とても簡単だ。
自分が子どもの頃に感じたことを、まじめにやっているのだ。名声も、表彰も、勲章もいらないのである。自分が、人の役に立っていることを確かめる。自分の存在感を確かめる。
ある者は、月に行く欲望を語り女優をはべらし、ある者は、おじいちゃんの夢であった憲法改正を、自分の公私混同化した悪事を隠し、国民を騙して通そうとする。
それはそれで、その人の価値観ではあるが、吉岡先生は、常に整序的である。
「才能あるものは、才能に見合った金銭的報酬を受けるという生き方も選べるが、金銭的報酬を受け取らないというあり方を選ぶとき、己の価値は無限大だと自己認識できる」と述べている。すべての、自分の能力以外の余計なものを取り除き、そこで例えば、命を救ってもらいありがとうございますと感謝されるということは、真に自分の存在感がそれを成し得たということである。その感謝や、喜びは、その人の心の中で、一生続いていく。家族も友人も、生きている限り、永遠にその体験を共有していくことになる。えらいものだ。
たった1時間の手術で、その人は一生悩まなくて済む。その技術に慢心することなく、常に高みを目指している。脳瘤で顔が変形するほど腫れ上がった子どもには、日本の病院で手術を受けさせ、その施術方法を学んできている。
いつも、子どもを連れて帰っていく親は、大先生と呼ばれている吉岡先生に、三拝し、感謝しながら帰っていく。日本の良さを知る人を、また一人増やしたのである、、
こういう清貧の人を、放送しておきながら、資本主義の権化である放送局は、別番組では東大、予備校講師、歌手の年収など、真反対の価値を押し付けている。スポンサーがいるとはいえ、嘆かわしい。
さて、この活動に賛同する医師も増えつつある。人の命を救うという、人として生まれたのにもかかわらず、神の仕業にもなせる技を、無償で提供する。これは、いくらなんでも、尊い行為でありすぎる。
きっと賢者は、彼を見逃さない。