言葉の変化?荒れ?諦め?
もう15年ぐらい前からだが、身の回りで言葉の劇的変化が起きている。
それは、男子の一人称の呼び方である。
今は小学一年生でも、自分のことを俺という。
知り合いの保母さんに聞くと、保育園でも、その傾向にあるという。わたしが、小学生の時は、歌の「我は海の子」の歌詞を、大阪の河内や泉の言葉だと思い、どうしてこんな言葉遣いをするのだろうと、音楽教材なのに反発するほどであった。
6年生のときの転入生が、「しばくぞわれ」とか、「殺すぞダボ」という、今まで意味のわからなかった言葉を流行らせ、保護者会が開かれたことがある。
室谷信雄 珠玉のギャグ ワッレ〜
俺などいうものなら、大変な時代であった。
中高と、大人しく謙虚に勉強し、大学では演習に社会人と出会うこともあり、就職するときには、男子はわたしというものだと思っていた。
それが、今、テレビの若い芸人も、おっさんの俳優も、みんな、俺の大合唱。俺、俺、おーっれ!スペイン人か?
そんな言葉遣いではあるが、俺の相手は、お前であり、俺は俺様のように1番偉い。気になるのは、男は勝負にかけるものだから、勝ちたいために虚栄を張るという説である。
男だから強くという固定概念や、お前が相手になるという仕組みには、何か古臭い、固定観念が隠されているのではないか。
相手を思いやるという人は、この言葉使うだろうか。
おでん仲間の小学校の先生は、一年生の国語の教科書では僕、わたしという表記だけど、親は俺と名乗る子どもを、大きくなった、立派になったと思うらしい。その親たちは、子どもをお前と呼んでいる。
仕方ないのかなあ。