じゃりんごチエ考①
いま、サンテレビで朝、じゃりんごチエを放送している。
久しぶりの再放送であった。作品の出来に反して、昔、いつものイチャモングループのPTAが、よくないアニメとして、攻撃していたのを思い出す。
あの闇の組織PTAは、なんだろうか。ただの父母なのに、偉そうに昔は卒業写真にまで会長が写り込んで、しかも、それが隣の学校長より偉そうに見えるということもあった。
もう少し前1968年ごろには、それまでになかった笑いで、イギリスのモンティパイソンを彷彿とさせるお笑い番組であったゲバゲバ90分も、その教育上好ましくないと言う、PTAの反対によって放送を打ち切られた。
それは、ドリフにも言える。
日本は、野蛮国である。
当時は、教育の専門家でもない、ただの1人2人しか子どもを育てていない親が、子どもの教育はと、大上段に振りかざし、現状維持をひたすら堅持していたのである。いわば、男尊女卑、身分制度、金持ち優先を第一義にあげて、髪を振り乱して、現状維持に駆けずり回る日本会議のようなものであったのだ。
いったい日本PTA協議会の会長って誰が決めているのだ。誰に許しをもらってやっているのだ。正体は、ただの、おっさんおばはんではないか。
今は、それほどではないが、周りの親たちの価値観が多様になり、貧富の差も明らかにされ、やる気のある人と、どうでもいい人とが同居しているのが、PTAである。よほどの嬉しがりでなければ、だれも、役員はしたくないし、会議にも行きたくもない。
子どもが高校生の時、PTA役員をさせられたが、役員の仕事の進み具合の遅さと、その効率の悪さに、もうありえない世界だと感じた。20分ですむ、文章の校正を3時間もかけてするのである。暇な人しかでいないし、よほど本を読んでいない人しか理解できないスピードである。
そんな哀れなPTAは、絶頂期には、学校教育に留まらず、放送内容までイチャモンをつけていたのである。
話をもとに戻そう。
じゃりン子チエは、その、暗黒時代に生まれた。大阪市頓馬区西萩を舞台に、仕事をしない父に代わり、自分でホルモン焼き屋を切り盛りする元気な女の子・チエと、彼女を取り巻く個性豊かな人々の生活を描いている。
監修があの高畑勲である。頭が高い、控えおろう。
チエの声は、天才子役と言われた中山千夏。
その作品を改めてみてみると、大人として大切なものに気付かされる。はちゃめちゃな話の中にある、子どもの不安、それを何とかしようとする周りの人の優しさ。チエのお母さんが運動会でアンカーをした時の場面では、号泣してしまった。
今は、一部の高級国民を除いて、多くの国民が苦しんでいる。政治の失敗で、株だけ上がると言う異常な経済政策を、バレないように進めている。野党も含め、生活水準の二分化を誰も指摘せず、コロナ対策も、首長の思いつきで行われている。チエが暮らす大阪など、患者より人気を優先している。チエがいたら、おっさんそりゃ無茶やと言うであろう。貧しいものの、声を聞こうとする人はいないのである。
さて、言葉遣いが悪いと言って自分の物差しで文化を傷つけ、親をテツと呼び捨てをするからと言って、失礼な子どもだといちゃもんをつけた、当時のPTA諸君。
あなたたちが、自分の子どもを、彼、彼女と呼ぶ方が、よっぽどおかしいし、気持ち悪いですよ。
今は、49話。
初めから、録画しておけばよかった。
ちなみにわたしの家の鍵は、小鉄のキーホルダーに守られている。