盗撮校長
母は、学校の先生を尊敬している。腰が曲がった今でも、自分の小学校時代に世話になった先生の話をよくする。聞いてみても。さほど、何がどうということもなく、わたしの小学校時代の方が明らかに、自由で楽しいといえるものである。
なのに、年老いた母は、いまだに担任をしてもらった先生や、遊んでもらった先生のことを、よく覚えている。軍国主義で、極めて喜びの少ない時代、学校が、安息の場所であったのだろうか。
一昨日、神戸市の校長が、通勤途中に、 また、女性のスカートの中を盗撮したという報道があった。
神戸市の管理職は、どういうわけか、社会的に適応能力が低い人が多く、あまり報道されないが、結構なことをやらかしている。実際に子どもが通っていた学校でも、お酒仲間の友人の話でも、それは明白である。
古物商から仏像や壺を騙して盗んだり、妻子があるのに不倫を25年以上前も続けついに別れ話てもめて障害事件にいたったり数限りなくあるそうだ。
職員も含めると、毎年のように、盗撮があり、その度に、もっと真じめにやれと御達しが出されるらしい。
しかし、出している本人も、学校で女性教諭と不倫をして来た人間だ。
現に、子どもが通っていた学校で、不倫の目撃情報があり、女性教諭と教頭の不倫が、噂に上がった。その教頭は、今は市の教育委員会の大幹部である。叩けば埃の出る体なのだ。そのくせ、学校は人権を大切にしているとうそぶく。
どうして、そんなことが起こるのか、いくつかの例から、その原因について考えてみた。
まず、体育のベランメエ教師が多すぎる。なんでも、適当に済まし、ある時には、パワハラまがいの口調でまくし立てる。阪神間や明石の友人も、同じことに気づいていた。神戸の先生は、体育の人間が、幅を聞かせていると。
時間割の多い、国語や算数なら分からないでもない。しかし、所詮遊びの延長で、時には、軍事訓練ばりに、テンションをあげる行為が、学校の中核に置かれることこそが、神戸の間違いなのだろう。誰かのブログに、コメントととして書いたが、中学の修学旅行で、うるさい組みが一組あり、8組までの委員長が、廊下に並ばされて、1人ずつ往復ビンタを受けた。理由をただすと、連帯責任だ、黙っとれと、また2発殴られた。その体育教師は、風の噂で、教育委員会の指導部長におなりになり、体罰はいけないと、若手教員に指導していたという。
次に、教員採用試験もそうであるが、管理職登用試験が実にずさんであるらしい。論文と面接であるが、判定基準など、ないに等しいという。小さな字が書けない人も、言葉遣いがタメ口の人も、なんらかのバックがあれば、なんとかなるらしい。校長の子どもはやはり校長だし、校長の子どもだけ新規採用された年もあるらしい。たのむわ、よっしゃ〜の世界なのである。
まだまだ、ネタは尽きない。リクエストによって、今後の掲載を考えたい。
とにかく、恥ずかしい神戸。
一度、管理職は、全て公正にえらびなおす
なんとか信用を取り戻してほしい。
こんな大学やめてしまえ
あまり知られてはいないが、文科省が、大学の教員の実績や経歴について調査をしている。学歴や、研究項目、出版書物、論文発表に至るまで、詳しく自分をアピールしていくことになる。
大学は、結構その道に精通し、業績や社会的認知が認められれば、学歴など不問であった。しかし、大学の乱立や学部増、学生の質の低下に伴い、小中学校のように、教える側の一方的な質の問題とすり替えられ、教員の一斉あんたほんまに頑張っているんやろうなあ点検が行われているのである、学生が勉強しないから、せめて指導する方だけでもなんとかしたいという、いつもの文科省のピントのずれた施策である。
新自由主義が、アメリカの指導のもと、小泉内閣によって導入され、人の仕事は、見事になんの合理性もない基準をもとに、点数で結果や人を評価してきた。次第に能力至上主義になり、何でもかんでも、失敗は許されず、弱者を切り捨ててきたのである。
さて、わたしは、いつもがりがり変なものにかじりつき、文句を垂れ、呑気に過ごしていたのではあるが、どういうわけか、近畿のある大学から、お誘いがあった。話が来た時は、青天の霹靂ではあったが、自分の専門性を活かすことができ、研究もできるので、決して悪い話ではないと、引き受けることにした。
今から4年前のことなので、それからというもの学会で発表し、論文も2本まとめ、会誌で認められた。
さあ、これからということで、約束の提出書類のことで問い合わせてみると、その研究科目に、学内でスライドした人がいるから、もう採用はないということ。
なんじゃこれは⁉️
専門分野はかなり新しい科目なので、急に学内操作で移ったとしても、そう簡単にできるものではない。
そこで、別の大学で教鞭をとる友人に聞いてみた。すると、その大学は学内で不当解雇が吹き荒れ、かなり訴訟も起きているという。そんなこともあるのか。
それにしても、学部長の要請を鵜呑みにして、今の仕事を辞めていたらどうなっていたのだろう。しかも、専門科目でもない人を、あてがうなんて、学生にとっても不幸なことである。大学側が、どうせ大した大学ではないと思っているのであろう。
今から思えば、学部長からの話だからと信じていた自分も悪かったが、その人がどんな相手かも、調べる必要があった。
こうして、悶々と時間を費やしていたが、昨日、先輩の別の大学の先生から、講座を引き受けるよう、要請があった。捨てる神あれば拾う神ありである。
不当に契約を不履行にした、その大学を見返してやりたい。
でも、学生には罪はない。
あの人の友だちづき合い
ヨーロッパで1番嫌われているアメリカ人のトランプが、大韓民国へと移動した。世界で3番目に信用のおけない国である大韓民国は、またもや、禁じ手の従軍慰安婦もどきの女性と、竹島でとれた海老を、その世界的な嫌日のうねりにしていこうと、提供する。
大韓民国は、本当に、小学三年生ぐらいの精神年齢である。笑ってしまう。
そこへ、これまた、精神年齢など測りようのない、奇人トランプが、また、分裂症気味に、一気にヒートアップし、一悶着おこすのである。
昨日までの、日本での、見せかけの友情が、一気に崩壊する。
何が、ゴルフだ。
何が、高級鉄板焼きだ。
株を日本銀行に買い漁らせ、さも、経済政策が、うまくいっているかのような錯覚に国民を騙す。マンションが買えそうな高級外車を乗り回し、高級鉄板焼き店で食事をし、会員権のあるゴルフ場で、シャフトを振り回す。その世話をする人たちは、召使であって、 あんな人たちなのである。
株価で儲けているのは、ほんの一握りの、仕事をする必要がない、暇な富裕層だ。そいつらのために、日銀が新札を刷り、発行している。
そんな政治であることに、大半の国民は気付きながら、自分でどうすることもなく、本気で北朝鮮からミサイルが飛んでくると、信じようとしている。
さて、あの男は、こんな風に友達に接することがわかった。バカなほど買い与えご機嫌をとる。心理学的に言えば、自分と相手の間に、自分で操作できる仲介者がいて、なにもかも、やってもらう。自分の地位を利用した忖度を巧みに操作し、さも自分が加担していないかのようなそぶりを見せる。本当の友達、ジプンを叱る者、優しく接してやらねばならないものがいない、自分本位の世界観しかない男なのである。
男は、岡山の田舎者の儲け話を叶えるべく、総選挙を行い、まだ、偶然の出来事であると、しらを切っている。
天下国家を意識して生きていかなければ、公序良俗、安寧秩序が、保たれていかない。
笑ってしまうのが、あの一線を越えてもらえなかった魅力のない、山尾志桜里衆院議員(43)が、週刊誌で交際疑惑を指摘された倉持麟太郎弁護士(34)を事務所の政策顧問とするという。ここまでやられると、本当にこの女は、国民のことを、舐めているとしか言えない。
不倫死ねである。
大人なら、天下国家を語ろう。
すてきな和歌山6 津波編
またまた、懲りずに和歌山物語が続く。
和歌山は、すてきな動物、美味しい食材、人の手が加わらない絶景、古くからの文化など、楽しみ方、味わい方が多様で、面白い。
人も、おおらかで、南紀に行くと、沖縄時間と錯覚するほどの時間のルーズさに出くわすこともある。温暖で穏やかな気候がそうさせるのか、海や山など自然の景観がそうさせるのか、よくわからないが、畿内の端、民俗学的にみても、面白い土地である。真剣に岡山や千葉との共通点や相違点を追究すると、古の人の行き来が明らかになる。それどころか、大陸との関わりや、文化の交流の一部が解き明かされるかもわからない。いま、和歌山を研究することは、あの折口信夫(オリグチシノブ)になることなのかもしれない。それならば、和歌山にいる友だちを頼って、是非挑戦したい。
さて、昨日は、世界津波の日、これは、和歌山の日と言っても過言ではない。
テレビのニュースでは、スマホと衛星を使った、安否確認訓練が、広川町の八幡神社であったことを伝えていた。そもそも和歌山の地方都市で、どうして、こんなハイテクの津波の避難訓練なのか、全く触れないで、淡々としたことだけを、ニュースで報道していた。
こんなのを、放送しないと、本当の大切さは伝わらんでしょうが。津浪まつり。
11月5日というのは、江戸時代の後期、安政年間に、和歌山の広村(現..広川町)に生まれ育った大商人の、濱口梧陵が、南海地震による5メートルの津波が押し寄せる中、稲わらに火をつけ、小高い丘の上にある八幡神社への避難路に、人びとを導いた日である。
広村出身の商売人で、千葉の銚子と、江戸で醤油屋を営んでいた。
広村の隣は、醤油の発祥地で有名な、湯浅である。この地から、千葉へは、船が漂流しても、黒潮に乗って流れ着くことも多かったという。実際、千葉には勝浦、白浜という地名がある。
梧陵は、一年の半分は、関東で店の大旦那として暮らし、半分は故郷で暮らすという、濱口家の先祖代々の生活を守っていた。
偶然にも、11月5日には、広村の自宅にいたが、地震と知り、これまた先祖代々の教えに従い、津波を予想し、村人たちに避難を呼びかけ、迫り来る海水に浸かりながらも、大勢の命を救ったという。
95パーセント以上の村人が助かり、近隣の村の生存率40パーセントを大きく上回った。
一刻も早く1300人もの村人たちを救いたいと、夕闇が迫る中、稲わらに火をつけ、八幡神社に村人を導いた事実は、後年、ラフカディオハーン(小泉八雲)が書いた『a living god』を、和歌山師範学校出身の小学校訓導、中井常藏が翻訳し、国語教科書教材として応募したことにより、『稲むらの火』として広く知られることになった。村の庄屋として語られる梧陵は、実際は35歳であった。
梧陵は、幾度となく打ち寄せる津波がひいた後も、避難していた村人たちの生活を支援した。船や住宅を貸し与え、農機具も、惜しみなく買い揃えた。そこには、広村を、失いたくない、村人1人でも去って欲しくないという、郷土愛が、貫かれていた。
梧陵の、素晴らしさは、そんな程度ではない。ただの、金持ちではなかったのである。生活の支援だけでなく、生きる歓び、働く歓びを、避難住民にも抱かせたいと、津波から村を守る堤防を築きそこで村人たちに働いてもらおうと、紀州藩の許可を得た。
村人たちは、盲人も子どもも働けるものは、全て堤防作りに参加し、梧陵は、その日当を支払った。単なる施しではなく、人としての尊厳や、故郷を思う心を大切にした。
しかし、この時再び関東で安政の大地震が起こり、梧陵の江戸の工場は、壊滅する。もう、広村に送る資金はないと、番頭は出費を渋るものの、梧陵は、堤防造りを続けさせた。村人たちは、梧陵のことを神と崇め、さらに信頼を寄せていった。
銚子の工場は、広村出身の者も多く、故郷の村に仕送りをしようと、必死に生産に励み、過去最大量の醤油を生産し利益を上げた。
工事は、外国船の度重なる来訪など、社会情勢の変化によって、途中で打ち切られたが、長さ670メートル、高さ5メートル、幅20メートルの当時世界最大の堤防が完成した。そこに、松など山の木を植樹した。
この工事で要した人員は延べ5万6736人、費用は94貫344匁(1,572両)であった。現代の金額に換算すると、米価換算ではおよそ3億7000万円、賃金換算ではおよそ18億6000万円となる。
何度も書くが、費用はすべて梧陵が調達した。銚子からは、安政2年に818両、安政3年に700両、安政4年に500両、合計2,018両が、送られたという記録が残っている。
こうして浜村の村人たちは、村を離れることもなく、村の崩壊は免れた。
梧陵は、その後、和歌山県県議会議長を務め、ニューヨークに渡航中に亡くなった。66歳であった。彼の葬儀には、村人の人数をはるかに超える、4000人もの人が参列した。今は、町の中で静かに眠っている。
梧陵の、業績はとにかくすごい。御三家である紀州藩と、堤防の許可で交渉する度胸も、素晴らしい。
初代郵政大臣であった前島密の前に、日本の郵便事業の基礎を作り上げた。
東京大学医学部の前身の、西洋種痘所を支援した。
故郷の、広村に教育機関として耐久社を建て、その精神は、今も耐久中学校、耐久高校に受け継がれている。
余談ではあるが、テレビドラマ「仁」の第7話で、ペニシリンを大量に生産する醸造所の主人としても登場する。
梧陵は、7代目濱口儀兵衛と名乗り、今のヤマサ醤油の7代目当主であった。そのヤマサ醤油の屋号も、山の形にカタカナのキの紀州藩の船印になぞらえつけようとしたが、御三家の紋章は、さすが恐れ多く、山の形に、キを90度回転させカタカナのサとし、ヤマサとしたということを、学生の時に、大学の助教授から聞いた。
どこまでも、和歌山を愛する人たちである。わたしも、生醤油やたまり醤油は、角長の醤油を、ポン酢醤油や普段使いの醤油は、ヤマサである。
それでも、梧陵さんには、なかなか及ばない。
すてきな和歌山5
またまた、和歌山である。
近畿のお荷物と言われながら、実は近畿の自然を一手に引き受け、パンダやチーターの繁殖は日本一。
言われなき人種差別集団のグリーンピースや、ただの牛肉販売エージェントのシーシェパードという馬鹿集団に、国の擁護が一切ないのに孤軍奮闘の太地町。
樫野埼でのエルトゥールル号遭難では、トルコとの100年以上続く友情を築いた。
地震と津波との危険性を、自らの行動で示した、広村の濱口梧陵の勇気は世界津波デーとして世界の人に記憶された。
あの、南方熊楠は、 徳川吉宗は、 華岡青洲は、というふうに、数限りなく和歌山の凄さが現れてくる。
それはそうと、順次、わたしの青春の息吹とともにお伝えしたい。
今日は、貴志川にも寄ってみた。和歌山から、県道を走り、約40分。
たま駅長で有名になった、貴志駅に行ってきた。40年前は、駅前は何もなかったのに、駅前には家も建ち、4台ばかり停められる駐車場もあった。
水戸岡さんのデザインした駅舎には、たま駅長の耳が付いている。ちょうど、たま電車が到着していたので、写真をたくさん撮った。
車内は、とても可愛い。
座席に、たまが寝そべっていても不思議ではない。
和歌山駅は、南海の難波駅から和歌山市駅を経て走ってきた急行きのくにと、阪和線天王寺駅からの急行きのくにが連結し、紀勢本線きのくにへと変身する場であった。
白浜のアドベンチャーワールドが、まだワールドサファリと言っていた頃、紀勢本線に振り子式の特急くろしおが、走り始めた頃、まだまだ、南海電車は、元気であった。
和歌山本線は、和歌山港まで営業していたし、徳島までの南海フェリーに連絡していた。
和歌山市駅からは、南海加太線が走り、海水浴場や淡嶋神社、友ヶ島へと気軽な遠足に行けた。今でも営業しているので行けるが、昔は、大阪のじゃりン子チエが遊んだみさき公園駅から出ている多奈川線とつながるのではないかと、期待したほど、加太のあたりは賑やかであった。何しろ、まだ、新日鉄住友金属和歌山製鉄所の高炉があり、火事ではないかと思うほど、夜空を真っ赤にしていた。
そんな、和歌山がまだ40年前、人口が42万人ほどがいた頃の話である。国立の和歌山大学も市内の一等地にあり、若者もたくさんいて、商店街もそれなりに賑わっていた。
しかし、やがて、都市化の波は、和歌山市を越えて県外へと向かう。
大学も、栄谷という中央構造線の破砕帯を挟む辺鄙な田舎に移転し、和歌山市内の学生相手の店や下宿屋は、廃業に追いやられた。その、もぬけの殻になったなれの果てが、今の和歌山市の静けさなのである。
その大学は、未来展望もなく、県の怠慢と、教授陣の勢力争いから、教育内容の充実を怠った。地域の産業と結びつく、農学や、水産学などの研究機関は全くなく、水産学などは、近大にお株を取られていた。その後、システム工学部や、観光学部が認可され開講したものの、和歌山県立医大を取り込めず、奈良県や滋賀県と共に、総合大学としてのエネルギーも実績もない、いわばジリ貧状態である。
そもそも、和歌山は、県外志向の強い県である。和歌山を嫌い大阪出身と偽るばちあたりの人もいるらしい。今でこそ、世界遺産や、環境で見直されてきつつあるものの、依然、故郷には伏し目がちな県民である。
その流れは、南海貴志川線にも訪れた。道路の整備が進むと、過疎が始まるという日本列島改造論での現象と、同じことが、おこったのである。
南海電車は、経営の立て直しを図るべく、南海ホークスを手放したが、やがて、その軸足を、関西空港線に置くことになる。
夢から忘れられた和歌山から、南海は、じわじわと、退却し始めた。
そんな延長戦上の、貴志川線であるが、こんな鉄道を、沿線の小学生が存続運動に携わったという。途中駅にある、貴志川高校の生徒が、駅のゴミ拾いや、ペンキ塗りを買って出た。平成17年、和歌山電鐵として、再出発するが、それ以降の人気ぶりは明白である。
なぜ駅長が、猫なのか。そんなことはもはや言及することではない。
それよりも、こんな田舎(失礼)に、どうして団体客をたくさん乗せた観光バスが続々と乗り付けるのか?
電車を見た人は、誰もが口を揃えて、可愛いを❤️を連発するのか?
どうして、三連休に、わたしががむしゃらに、遠方から駆けつけたのか?を、考えればわかる話ではある。
その匂いを嗅ぎたい。そこまで立派に、立て直した、勢いを味わいたい。人は捨てたものではない。捨てる神あれば拾う神あり。猫大好き。であろう。
実際、たまは電鐵の代表者に、名誉永久駅長として名を連ねており、招き猫として、彦根藩主を救った白猫ひこにゃんとともに、鉄道を救った三毛猫たまとして、また永久に知られる存在となる。
大したものだ。
そして、前述の、パンダ、ちーたー。和歌山の動物は、まさに神がかりである。
たま駅長の経済効果は11億円だと言われる。しかし、もっとすごいと感じているのは、わたしだけだろうか?
すてきな和歌山4
またまた、休みは和歌山である。
なぜか和歌山は、落ち着く。
青春の思い出も、蘇ってくる。
あの道、あの橋、あの山。
懐かしい。
ところが、あれほどなんの変化もなかった和歌山が、激変していた。
まず、道路が綺麗。
泉南から岩出に抜ける道が素晴らしい。
もともと、船戸という地名があるほど、紀ノ川は、中流で、船で渡っていた。
平安の頃は、和歌山市あたりは氾濫原で、どうしようもないところであった。
和歌山市の東あたりぐらいから、遺跡は発掘される。
京和奈道が、整備されつつあり、中央構造線なのに、自然に逆らうかのように、白い高速道路が走り、その細く高い橋桁が、鉄腕アトムのアニメの未来の国のように林立しているのである。
つい、20年前は、阪和道がなんとかと言いながら、高速道路などにも縁もなく、馬車と機関車が、走っているのではないかと、近畿のお荷物として、蔑まれていた和歌山ではあるが、急変に気づき改めて、すごいと思ったのである。
まあ、利用している車は少なかったが。