公務員は、国民の公僕としての責任があり、役割はそれだけだと断言しても良い。縛られるのは、日本国憲法だけであり、そのために宣誓書を書かされる。
さて、看護師の再審にあたり、またまた、検察は有罪を主張するという。
賢人はこの矛盾に向かい合えるか?
裁判所は、証拠や自白に重大な誤りがあるということで、再審を認めたのであるが、いやいや、私どもの目は、一点の濁りもなく誤りもなく、正義であると検察はほざいているのである。
ここで、国民の代理として、検察という仕事をしている公務員の主張を、我々は認めるのかどうかである。正当な理由もなく、ただ、そんなんいうても前に認めてくれたやんと言わんばかりの、浅はかな反抗に見える。
わたしは、この検察の態度を、国民に対する反逆であると主張したい。いや、騙しである。
公務員として、あれは間違いであったということは、昔は、切腹ものであった。いや、今回のように、罪を着せ懲役まで課したのであるならば、斬首に当たる。
裁判では、おそらく被疑者が無罪になるであろうが、無罪になった瞬間に、あの、逆転無罪の紙をカメラの前に掲げるのと同時に、該当の検察官の名前、住所、家族、電話番号等、個人情報を白日にさらしてもらいたい。関係者が少し努力すればわかることである。
話は変わるが、高齢者を狙った詐欺も、警察が本気で捜査すれば、犯人は捕まえられる。それをあたかも、騙される国民側が悪いという個人に責任を転嫁してしまっているのである。高卒武装集団である警察は、高級国民しか守らない。
しかし、賢者は、権力に簡単になびかない。
さて、話を戻そう。
検察が国民の税金を使い、それで生業を立て、人の手を煩わせ、警察の誤った操作に絆され、オラオラやっているのは、はたして国民の利益にかなうものなのであろうか。
高級国民さえ守れば良いという、安倍政権の株価至上主義に端を発した格差社会の連鎖の上にこの検察の態度は成り立っている。森友学園事件で、検察は不当勾留をした。小学生でもおかしいと気づく茶番をやった連中である。まずは、担当者を洗い出し、その責任が個人にあると明言するようにならないと、この嘘くその変な国家は、真の民主主義国家を名乗れないのである。