学歴なのか愛なのか
今日も、テレビで芸能人のクイズ合戦がある。誰が物知りかというのではなく、
あの有名大学出身者でもこんな問題知らないのかという、視聴者こそが優越感を抱ける内容だという。だから、教養番組ではなく、バラエティなのであるらしい。
間違う側は、いわゆる高学歴であればあるほど、その失敗は愉快なものとなる。
でも、よくよく考えるとおかしいことに気づく。学力という言葉は、そういう、わかる、わからないだけのものなのか。
知識を蓄え、まさに銀行のごとく貯め込んでいる有様を、ブラジルのパウロ–フレイレは、銀行型教育として批判した。
貯めているだけで、使われていることのない知識が多すぎる。
そう言えば大学入試科目の世界史で覚えた、「オットー一世962年戴冠」など、入試に出なかったばかりか、未だ誰にも尋ねられることもなく、記憶の闇の中に眠っている。
インターネットが普及し、AIの時代を迎えた現代で、未だに知識や記憶の持ち合わせを競ってどうするのか。
いや、それだからこそ間違いを笑うのであろう。
長々書いてしまったが、ここまでの話は、どうでもいい話で、難問に答えることが、頭の良さであると思うのは、まったく自由なのである。ただ、もうそういうことは、たくさんある学力の一部であって、難問を解くことが、これからの時代において必要十分条件ではないことだけは覚えておきたい。
どっちみち、基礎学力は人それぞれ違うものだし、学力テストが優秀だからといって、たいして違いはない。
有名大学を出たからって善人だと決められるはずもない。
所詮、人間ってちょぼちょぼなのだ。
問題は、大学の名前だけで人を判断するという風潮をマスコミが煽っているのではないかということである。これは、もう言い古されていることではあるが、そもそも今の大学は、本当にその値打ちがあるのかということも同時に議論されるべきでもある。
研究に勤しむはずの3年次のはじめから就活に邁進し、肝心な専門性などかたちばかりのものに成り下がっているのではないか。おまけに、有名?私立大学の中には、運動部の選手に下駄を履かせる旧式のやり方の他に、推薦制や一芸入試を実施している。
まともな入学試験を受け、入学するのは半分以下という惨憺たる入試制度である。
しかし、企業は未だに大学時代の成績より、大学の名前で採用を判断している。依然、体育系が重んじられ、自分で判断しない、大きな声で返事だけできる若者が、わんさか会社に登場する。
たかだか、クイズの解答数だけで大学の優劣がわかるはずがない。
どんな学校であっても、学問に没頭している学生を評価していかないと、日本の将来は暗い。
マスコミのロジックに騙されてはいけない。
事実もう直ぐ、障がいをもつ人たちを紹介しながら、寄付を募り、出演者やテレビ局はちゃっかり出演料や制作費をいただく、番組が控えている。
「愛は地球を救う」
愛などと。たやすく口にするな。
すみません。つい興奮してしまいました。
相反する価値観を浴びせられる視聴者は、そろそろテレビと決別する時期が訪れたみたいです。
でも、旅番組は好きだからなあ。
やめられないなあ。