アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

素敵な和歌山8(勝浦への道)

またまた、1月に続き、和歌山に行ってきた。 

【美味しいフライヤ】

   実は1月に、洋食フライヤのヘレカツが食べたくなり、どうしようもなくホイホイと行ってしまった。

和歌山市に行くと、元気ならフライヤのヘレカツと決めている。あのドミソースがまらない。

普通のまったりとしたデミグラスソースではなく、少し苦いのがいい。また、ハムサラダの、もう桁外れの太さや、自家製マヨネーズの中途半端な硬さも好きだ。

和歌山にもいよいよ人手不足の波が押し寄せ、外国人が接客するようになった。ついにここまできたのかと、感慨も新たに、繁盛を続けているフライヤが頼もしい。

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【和歌山への道のり】

前回は、高速を使わず地道で行った。高速は味気ない。虚無な壁が続くだけであるし、道路は山の中である。しかも、料金が高い。

    4月から第二神明が値上げかと言われているが、物価2%上昇の目的に合わせようとしているのか、このご時世に値上げである。それにしても和歌山の高速道路は、高すぎる。田舎の人にとっては珍しかろうと、阪和自動車道の海南以南は、1キロ100円と言われた時代が長く続いた。今も、そうである。

    料金獲りまくり、まるで貯金箱のようである。消費者物価をいとも簡単に押し上げるには、通行料の値上げは、実に都合がいい。アベノミクスへの忖度からか、早速料金体系の変更として利用者を騙し、実質値上げをしているのだ。そのくせ、道路公団というやつらは、信じられないほどの厚遇を受けている。だから、こちらは、あえて高速を使わず、地道で行こうとするのである。地道で行くと海南の埋立地でのグニャグニャ道が行く手を阻んだり、農作業中の軽トラが30キロで前をノロノロ走ったりするけれど、景色が楽しい。

    和歌山の道は、和歌山、海南、田辺、新宮を除いて、信号渋滞はない。そのかわり、工事で片側通行は多い。和歌山市から南紀までは時間は読めないことはない。

  しかし、大阪市内が大変だ。阪神高速は、高いし故障車やゴト日などで、時間が読めない。市内も、やたら信号が多く、つながりも悪いので、最悪である。都構想より、東西南北の交通網整備が緊急の課題だ。

泉南あたりの国道は、バイパス沿いに外食産業が乱立し、そこへの出入りの車で無用な渋滞が起こる。

    同じような場所は、どこの都市周辺にも、いたるところにある。特に、第二神明西行き明石出口から、西明石までの片側一車線は行政の無策を醸し出している。

  今回は、いつもの行き方ではなく、五條市回りで新宮に抜けることとした。十津川村を走るルートをカーナビに入れ、運転し始めた。このルートは40年前なら、上級者しか行けない過酷な道であった。そういえば、司馬遼太郎さんが書いた街道を行く〜十津川道〜の記述に当てはまる集落や景観がたくさん残されていた。

街道をゆくの解説では、

【タクシーで大阪を南下した司馬遼太郎は、富田林を経て、金剛山の山中に入り、五條で土地のタクシーに乗り換える。十津川へと向かう山道で、司馬さんは、十津川郷について<「十津川共和国」というものをつくることもできるし、ひるがえっていえば実態は多分にそうだった>と考える。天辻峠では天誅組の命運を、上湯では新選組に追われ十津川に逃げた田中光顕らのことを思う。最後に玉置神社を参詣し、熊野に抜けた司馬さんは、隠国と呼ばれた熊野が、十津川に比べて<目を見はりたいほどに広闊な野に感じられる>】と書いている。

 

    同じようなルートで、富田林を抜け、千原赤坂村を通り、金剛山の看板が見られる頃、ようやく県境に入った。大阪は信号が多すぎる。

  山道を進むと、そこは五條ではなく吉野であった。近鉄吉野線を右に見ながら下市まで進み、さらに南下した。車のカーナビは、いつも以上におかしな所に連れて行こうとする。Uターンしろとか、道を変えろとか、ひつこく、また訳の分からん命令をしてくる。

    十津川の標識が出てきたが、以前、行ったようでよく覚えていない、天川を通り十津川に戻る道を選んだ。天川村といえば、映画で、天川伝説殺人事件のぶたいになったところだ。また、芸の神である天河大弁財天社があるのでも有名だ。何がしら人前に立って話すことが増え、パフォーマンスも多く求められるようになってきたので、そろそろお参りをとも考えたのである。勝浦に着く時間も気になるが、ここまでくれば、あと3時間もかからないであろう。そう思いながら、次第に細くなって行く山道を走って行った。

    信号もなく軽快にしばらく進むと、黒滝村に出た。何か温泉が湧いているらしく、蕎麦でも食べたいと思ったが、よく考えると蕎麦の産地ではない。そんなことより天川にはなかなか着かないので、焦ってきた。おまけにカーナビで見ると、天川村の中心地の川合というところからは、池原ダムを経由して北山村に抜ける東熊野街道を通り、新宮に出るコースがある。以前観光いかだ下りを朝一で体験するとき、一番早い行き方として、この道を使ったことを思い出した。あの揚水式の発電ダムである池原ダムを通るのである。そういえば、新宮からの帰りにも、この道は近道として何度か利用したことがある。ふと思い出した。

   しかし、そんな道なのに、今の時期は閉鎖されているという。ダム湖の側を走るヒヤヒヤの体験ができるのだが、災害か季節かわからないが通行止なのである。それでも、とてつもなく長い綺麗に整備された2つのトンネルを抜けて、川合に着き、やはりあらゆる方面が通行止であることを確かめた。

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    仕方なく、またまた黒滝に戻り、たまたま、十津川村に抜ける道が2つのトンネルの間にあることを見つけ、またまた引き返して、昔の十津川街道を彷彿とさせる道を進んでいった。

   その県道49号線も、入り口に通行止になるかもしれないとの警告の看板が立ちはだかる、なかなか物々しい山道であった。車1台がやっと走れる川沿いの道を、この川の先には十津川があると信じつつ、それでも西日裏簡易郵便局や、西吉野町の施設があるのに勇気付けられながらゆるりゆるりと走って行った。

やがて道幅も広がりパトロールの警察のパトカーでもすれ違い、この先には十津川があると確信した。西野というところで168号線と合流した。

【十津川というところ】

    新日本風土記でも紹介されていたが、十津川の歴史は古く、また日本史に及ぼした役割は大きい。隣の吉野も、壬申の乱以来の天皇家とのつながりがあり、ここ十津川も、蘇りの里であり、後世への転生を叶えてくれる熊野への道が通る。熊野詣での時には折に触れ、もてなしをしたであろう。数々の政変にも、都からの追っ手を逃れる場でもあったはずである。であるから、ほとんど農業と林業であるこの村の人たちは、郷士と言って、胸を張っていた。それを、十津川を訪れた司馬遼太郎は、なんと先述の『街道をゆく』で次のように書いている。

【幕末京都にあって反幕府勢力を成していたのは、ある時期まで長州藩士と九州諸藩や土佐の脱藩浪士たちであり、文久3年(1863年)、長州の没落後は薩摩藩が主力を成したが、その間、これらに伍して「十津川郷士」という集団が、小勢力ながらも存在し続けた。市中に藩邸じみた屋敷を持ち、どうせ借家であったろうが十津川屋敷などと称されて、十津川から出てきた連中が合宿し、御所の衛士(エジ)を勤めていた。むろん全員が苗字を名乗り、帯刀し、士装していた。なんとも妙な一帯で、十津川村民というのは、本来、百姓身分なのである。
 大和十津川御赦免所
  年貢要らずの作り取り
という里謡が江戸期からある。
 御赦免というのは年貢をおさめなくてもいいという意味である。十津川郷民の気質の明るさはこれをさえ特権であるかのように里謡や文書などで自慢しているが、要するに米が獲れないために幕府がやむなく免租地にしていたわけで、「年貢要らずの作り取り」などと誇っても、作り取りして自分のものにできるような水田も無いに等しく、本来、山仕事で暮らしている山民なのである。
 しかし十津川農民の不思議さは、下界の体制が自分たちを百姓にあつかおうが扱うまいが、主観的には全村が武士だと大山塊の中で思い込んできたことだった。】

    十津川を走る道はすごく整備されている。蛇行する川沿いに集落が点在し、それをつなぐようにわずかばかりの山を削りほぼ直角にそそり立つ山肌と、谷の底までが随分と深い崖の間を、道路が走り、しかも随分と回り道をしながら進むのである。かつては、中国の茶馬街道のようなものであった。それが、今、新しい高架橋でまっすぐな道に変えられ、行く山肌には容赦なくトンネルが掘られているのである。それゆえ、随分と距離が短くなったし、安全になった。片側一車線ではあるが、もともと通行量は多くない道である。

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   あれよあれよという間に、谷瀬の吊り橋が過ぎていった。もうそこには、白い河原が続く景色はなく、一番嫌いな、アスファルトとコンクリートの壁ばかりではあったが、村人には、有難い話であろう。

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    風屋ダムを臨み、いよいよ本宮へと進んだ。

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本宮も、街並みが随分きれいに整備されている。なにか、お洒落な雰囲気まで漂う。電柱がない❣️また、後でも触れるが、和歌山は、世界遺産に立候補するにあたり、トイレの水洗化と、洋式便器の設置、ウォシュレットの配備、便座消毒液の配置など随分力を入れた。多額の費用をかけ、吉野熊野国立公園はもとより、本宮や那智などの神社、道の駅、公園に至るまで徹底的にやり尽くした。今外国人が押し寄せる中で、どうだ、軟水の日本ではこんなところまで、お尻を洗ってくれるのだ。と言わんばかりの徹底ぶりである。田舎だと思っていた和歌山は、随分変わってしまった。もう近畿のお荷物ではない。もう、二階幹事長も、そんなことは言わせないのである。

    さらに北山村にも行きたかったが、時間がなく、雨も降ってきた。いつも通り、これまた川沿いの道をすすむかとおもえば、立派な高架橋となり、おまけに川の上に立っているのではないかと思わんばかりの素晴らしい景色である。景色に見とれて運転してしまい、近くの川湯温泉のことが吹っ飛んでしまった。少し後悔した。新宮も、あの街中を通るのではなく、建設中の高速(無料区間)に直結しており、しかも勝浦出口は、ホテル浦島の駐車場へと続く道に出た。très bienである。

大変長文になったので、ホテル浦島でのハテナについては、またまた、素敵な和歌山9で掲載します。乞うご期待❣️