家の前のタバコの吸殻について
毎日家の前の幹線道路のゴミをひろっている。
はじめは、入院している母のための善行であった、せこい話だが、世の中でいいことをしていると、神様は罰を与えないだろうという、簡単なおまじないであった。
神様は見ているはずはない。
なるようにしかならないのであるが、世の中の宗教というのは、その苦しみや理不尽に真正面から向かい合えない自分の、別の応援団にもなり、道標にもなる。神様にお願いして、叶うはずはない。しかし、誰かの責任にすり替える臆病さは、人間には備わっているのだ。
だから仏像は、人々の願いによって様々作られてきた。病気になれば薬師如来を、賢くなるには文殊菩薩を、誰彼となく最後のすこしまえに救いに来るのが弥勒菩薩、それまでは、とりあえず地蔵菩薩がその役割を担う。
ほんまかいな。
たくさんの仏が分業しているのである。
それぞれに真言があり、意味がある。
まあ、周到に練られた物語なのだ。
そんなこんなで町内の掃除を一手に担っているのである。たくさんの自動車が走る道があり、中央分離帯には、恐ろしいほどのゴミがあった。何年かまえには、そこに子猫が捨ててあった。ビデオもデッキこと捨ててある。分離帯と言っても、誰も点検に来ない。だからだろう。
さて、いつもゴミを拾い続けても、なかなかなくならないのが、タバコの吸殻だ。
いつも近くの人気店のデリバリーに車が何台が駐車するが、待ち時間の間に、道路を灰皿にしている。灰皿だけでなく、食べ物のカスや、包み紙も置いていく人がいる。
日本人は、中国人の民度を馬鹿にするが、日本も相当なものである。道徳などなっていない。
嘘みたいな話だが、町内のゴミ置き場に車でデリバリー店にきた車から家庭ゴミを放置かれるときもあるという。
昨日の朝は、50メートル程の間に6本、日曜の朝は17本というように、吸い殻はなかなか、なくならない。
ひつこく掃除をし、気付いてもらうしかしかたがないのかもしれない。