名前で揉めてる場合か
わたしは、学生の時、社会科学を学んだので、人一倍社会の出来事に関心が強い。
歴史学や西洋哲学、政治学と総合的に人の営みを科学的に捉え、インチキはないか不公平がないかを考えている。
この7〜8年、日本は、真理は、自分の都合でねじ曲げても良いという実にいい加減な価値観が支配している。首相の加計学園問題での発言、森友問題での改竄、桜を見る会での言い逃れなど、本当のことを述べなければならない時に、自分の都合の良い捕まえ方をくちばしり、やっていないもんねと嘯く。
これは、小中学校で教師をしている友達や、何某かの手伝いに学校に行っているとなりのおじいさんが口を揃えて言う。
明らかに、嘘をついても自己主張さえすればなんとかなると、小さな子どもも、薄々感じているのだ。
安倍の日本の道徳観を乱した罪は大きい。能力のない友達や、全く反対の考えを持つものを大臣や政府の要職に祭り上げ、
自分の名に誇りを持ち、自分を戒め正直に生きるという、日本人の美しさは、美しい日本というインチキ本を書いた安倍に奪い去られてしまった。偏差値48に。
では、野党はどうか。
自分たちが、本気でこの日本の舵取りをして行くという気概がもはや感じられない。批判する前に、自分たちならこうやると明言して意見を出すべきだ。しかし、粗探しばかり。
どうしてなんだろう。
野党は、働く人の代表としての立場ではあったが、なんのなんの、組合出身者であっても、もともと、組合貴族なのである。上意下達方式で命令していた立場の人間なので、なんら生活者のことはわかっていない。無知なのである。
それでも、経営者や金持ちの代表である自民党や、創価学会の代表である公明党を認めるわけにはいかない。まして、野党の顔をして日刊ゲンダイのように国民の不満のガス抜きをしながら保守政治を自民と進めている維新など、名こそ惜しけれと背信を恥とする日本人として許すわけにはいかない。
ならば、野党頼みである。
しかし、前述のように野党も野党である。
今、立憲民主と国民民主が新党名で揉めている。頭の硬い偉いさんが、意地の張り合いをしているのである。そこには国民の姿はない。民主党政権は、統一性はなかったが、政治の不透明さやインチキさを正直に国民に見せてくれた。なんでも隠す自民よりは100倍もいい。
いまこそ、池上彰や林修など、賢い知識人を懐刀にして、新しい波を誰かがおこしてほしい。
誰もやらないなら、わたしが、、、
お金がありません。