24時間テレビより本物はすごい
オリンピックの開会式は見なかったけれど、昨日のパラリンピックの開会式は見た。
というか、いつも夏休みに、純な子どもからお小遣いを巻き上げていく、偽善チャリティー番組の、汚れを洗浄するために、見た。
よかった。
この何十年か、障がいをもつ人の露出が増えた。自ら進んで障がいの名を伝える人も出てきた。障がいは、恥ずかしいことではない。
個性なのだ。
人はこうあらねばならないというものはない。
昔、神戸市の教員は、体育の教師が、「健全な精神は健全な体に宿る」とばかり言っていた。中学生だった私は、すでに人の多様性に気づいていたので、その乱暴な言い回しと、いかにもそれしかないとわかる了見の狭さに辟易としてしまったことを覚えている。
聞くところによると、今も神戸市は体育至上主義で、教員採用試験でもスポーツ歴が尊重されたり、体育会系が力を占めていたりすると言う。教養や性格でなく、バレーボールの選手であったとか、陸上の選手だったとか、そんなことで採用しているのだ。それだけでなく、インチキな管理職試験も、体育優先なのである。論文試験という点数の出どころがわからない、大学入試でもまだ採用を見合わせている主観的な気持ちが介入する極めて不透明な方法でやっている。体育のボスは、教育長より顔を利かせているらしい。教育がこんなものだから、神戸市の未来は暗い。
さて、ペコパのように話を戻そう。
芸能人がたくさん出て、出演料をもらい、優しさを振りまくという、偽善にみちた、チャリティ番組より、パラリンピックの開会式は素晴らしかった。
長い挨拶さえなければ。
天皇陛下も優しい目で歓迎の手拍子をしてくださっていた。天皇陛下の教養が滲み出た振る舞いは好きだ。ところが、隣でいた首相と都知事の目は虚だった。それこそ、24時間テレビの目であった。
聞けば、プロデュースは、子どもの知り合いの演出家だという。統一感があってわかりやすかったと自分のことのように喜んでいた。
これから、熱戦を期待したい。どんな支援をしているのかも、見ながら勉強していきたい。