アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

論文なんて

久しぶりに学会に出かけ、論文を謹呈された。別に偉くもないが、肩書きだけ実力より先行しているため、相手も仕方なく渡してくるのである。

いただいても、自分の学生時代からの分野とは違い、かなり理系の実験や実践が多く、なかなか、理解できない。

中には、いちびって英語の論文もある。

 

しかし、大学の論文は、どうして、あんなに難しく書かないといけないのか。事実が大切だと言われるけれど、その事実もわからない図表にしているため、正しく読み取れない。初めて買ったSONYVAIOねノートパソコンの説明書に似ている。読んでも意味がわからない。

それなら、一層の事、椎名誠ばりのエッセイのようにしてしまうと、わかりやすいのではないか。

 

だいたい学者は社会音痴と言われてきた。その場に応じた挨拶ができない。ありがとうを言わない。変な笑い方をする。むっつりスケベエである。など、いいものはあまりない。確かに、今まで出会った学者は、何の面白みもなかったし、真似をして、生きていきたいなど、一度も思わなかった。それよりも、高度の対人関係苦手症や、話の的がわからない症、感情通わない症、など名前が付けられそうである。

 

人に伝えること、未来を語ることが仕事なのに、難しい言葉を遣い、わざと難解にする必要はどこにあるのだろうか。できれば、明石家さんまのホンマでっか!?に出る前に、わたしたちでも読めるようにしてほしい。例え話や、具体的な事例も入れて、書いてほしい。そうすれば、大学は、変わる。勉強をしたい人が増える。人の生活に密着した、発明発見ができる。

 

今、大学は、教育課程の編成をしている。ぜひ、この案を活かして欲しい。