アヒージョ好きのビーバー

世の中の本質を、自分なりに考え、解説します。正義感が強く、偉そうなもの、金持ちには、牙を剥きます。

京都紀行

阪神百貨店スナックパークに行く前に、京都に行った。

9時過ぎに到着したが、まだ、気温も低く風もそよいで清々しかった。これなら行けると、清水まで歩く事にした。三十三間堂を目印に東北東に行けばいいとはわかってはいるが、しばらく行っていないと、順番も位置関係もこんがらがってしまっていた。

とにかく歩き始めたが、朝が早いためか、修学旅行の学生や、外国人家族しか歩いていない。ある交差点では、4箇所全て外国人で、一体ここはどこの国なのかと思わんばかりの状態である。

何か訪ねられるかなあ、訪ねられても東西南北しかわからないなあと、半分期待しながら一緒に信号待ちをしていても、どちらかといえば、外国人の方が何年も京都に住んでいるような態度で、それでもわからないことは、スマホで調べてという体制である。

 

次第に日差しが強さを増してくる中で、なんとかビルの北側にと歩く場所を考えたものの、京都は東西南北に配慮した街である。したがって、東からの光は素直に道を照らす。春分の日から一カ月たったとはいえ、あまり影はできていない。わずかにあるニョロニョロ道を行き、陰の恩恵を少し受けながら、清水へと急いだ。

 

途中、路地をニョロニョロ歩いていると、任天堂の初代本社を発見した。何か秘密の研究所のようで、中に入ってみたかった。

 

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周りにある建物も、時代が古く、自ら博物館を名乗る邸宅もある。京都の歴史は半端じゃない。それこそ、江戸時代ぐらい軽く遡ってしまいそうである。次回は、ぜひこの辺りを探索してみたい。

 

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川を渡り、耳塚と豊国神社に行き着いた。

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鴨川

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耳塚

慶長の役での死者2万人の耳鼻をまつっている。

 

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豊国神社

ここは大仏殿があった場所ではあるが、案外石垣が短いので、こんなものかと感じた。

 

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大仏殿の基礎を造っていた石

 

次第に日差しはきつくなり、ジリジリと皮膚を焼いてくる。そういえば、どうして関ヶ原で西軍は負けたのだろう。昨日、歴史番組で油断があった、という話があった。

油断かあ。

歴史にモシはないけれど、豊臣の国ならどうなっていただろう。江戸期に外様であった大名は、皆、家臣を大切にし、外国を意識し、国を豊かにして来た。岡山のような小早川みたいなしょうもないバカ殿もいたが、徳川ほどミミチイ事はしなかったであろう。五大老のような評議にかけるやり方が続いていたなら、発明や発見を日本人が独占できていたかもしれない。

何とかかんとか思いながら、汗をふきふき歩いた。

 

いよいよ、清水。

外国人客はますます増え続け、班ごとに貸切タクシーで移動している修学旅行の学生がワンサカいる。それだけでなく、タイや韓国からの団体ツアーもある。次第に、賑やかになっていく坂を、痛い足を引きずり、登って行った。

 

外国人観光客は、中国人や韓国人の中には自撮り棒を持ってきている人もいるが、西洋人はそんなものを使わないで、他の観光客に頼んで撮影してもらっている。早速、女子高生が、カメラマンを引き受けていた。

随分時代は変わった。

 

階段が多く、あまりの膝の痛みにカメラで景色を撮るのも忘れてしまうものの、やっと音羽の滝までたどり着き、無事清水参拝を終えた。

 

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あとは一刻も早く京都駅に戻り、第一旭でラーメンをと思っていたが、ものすごい行列で、並ぶ気にもなれなかった。ということで、いつもの京都拉麺小路喜多方ラーメン坂内食堂に行った。

 

さて、先日、NHK番組の「チコちゃんに叱られる!」で紹介していたけれど、ラーメンをラーメンと呼び始めたのは、大正10年に札幌の中華料理店の「竹谷食堂 」のおかみさんであった、大久タツさんが最初である。

客である北大の沢山の中国人留学生が好んで注文する、人気の「ロースーメン」があった。ロースーとは、青椒肉絲の、ロースーである。細い牛肉とタケノコの細切りがのったロースーメンは、日本人にも人気になった。

それを、日清戦争以降の中国を見下す言い方として、支那そばと差別的な名前でラーメンのことを注文する日本人の無神経さに申し訳なさを感じたタツさんは、ロースーメンの呼び名が言いにくいのだと考え、新しい名前をつけようと決心する。

美味しい感じ、楽しい感じを意味する名前が付けられないものか、加えて、誰もが覚えやすく親しみやすい名前にしたかったという。

ついに練りに練って、料理ができたよと、出来上がりを示す「ハオラー」という言葉と、汁そばを意味していた「ロースーメン」を合わせて、ラーメンという言葉をつけたという。

覚えやすく、日本人にも馴染んで、使われるようになった。

大久タツさんの、中国人留学生に対する優しさに感謝である。

その後、竹谷食堂は、戦時中の品不足のために閉店するが、戦後札幌を紹介した雑誌にラーメンの町として取り上げられ、昭和33年のインスタントラーメンの発売とともに、ラーメンの呼び名は全国区になった。

今や世界中でラーメンといえば、あれだとわかる名前になっている。

 

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またまた出ました、喜多方ラーメン坂内食堂。

いつ食べても美味しい。

食べ応えのある麺に、美味しいチャーシュー。

スープも絶品。

今回は、こんなのとビールも頼んでしまった。

 

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とても美味しい?